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2章16~17節


創世記2章16~17節

【新改訳2017】創世記2章16~17節
16 神である【主】は人に命じられた「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」


  • ここでは「食べる」ということがテーマとなっています。「食べる」を意味する「アーハル」(אָכַל)の使用頻度は827回。初出箇所は創世記2章16節です。

※「アーホール・トーヘール」(אָכֹל חֹּאכֵל)。同じ言葉を重ねることで「大いに食べてよい」「思いのまま食べてよい」の意味になります。אָכֹלは不定詞、חֹּאכֵלは二人称単数未完了停止形。
※「食べてならない」は「ロー・トーハル」(לֹא תֹאכַל)。「食べるとき」の直訳は「あなたが食べる日に」となっています。「ベヨーム・アホールハ―」(בְּיוֹם אֲכָלְךָ)。

  • 主なる神は「食べてよいもの」と「食べてはいけないもの」という禁止条項を初めて与えました。その理由は、「食べてはいけないもの」を食べるとき(日に)、「あなたは必ず死ぬ」からです。「あなたは死ぬ」(「モート・タームート」מוֹת תָּמוּת)というところにも、死ぬという言葉が重ねられています。מוֹתは不定詞、תָּמוּתは2人称単数未完了形。
  • 「アーハル」(אָכַל)という語彙は神と人間との関係においてきわめて重要です。「食べる」ということばを巡って、「どの木からでも思いのまま食べてよい」というエデンの園の豊かさを存分に楽しむべきことと、「善悪の知識の木から取って食べてはならない」というエデンの園における唯一の禁止事項を守ることが示されています。「食べてよいもの」と「食べてはならないもの」を置くことによって、彼らが神の言われることだけに聞き従うことを教え諭す言葉です。残念ながら二人はこれに従うことができませんでした。
  • 創世記3章1節で、賢い蛇(הַנָּחָשׁ)は、女(הָאִשָּׁה)に「食べる」ことに関する質問してきたのです。

【新改訳2017】創世記3章1~5節
1「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。
2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです
3 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
4 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」
6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた
11 主は言われた。「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
12 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 神である【主】は女に言われた。「あなたは何ということをしたのか。」女は言った。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」
14 神である【主】は蛇に言われた。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。
17 また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。
18 大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる
22 神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

  • 上記のように、創世記3章がいかに「食べる」(動詞「アーハル」אָכַל、不定詞「アホル」אֲכָל、名詞「マアハール」מַאֲכָל)ことに関係して展開しているかがわかります。「食べる」ということが、単に食物として「食べる」ということにとどまらず、神のことばをどのように聞くかということが問題となってきます。
  • エデンの園において、生きるもの「ネフェシュ・ハッヤー」נֶפֶשׁ חַיָּה)として造られた人(הָאָדָם)とって、いのちを保つために不可欠なのは食物(「アフラー」אַכְלָה)であると同時に、神のことばという食物です。神のことばを食物とする人間と他の生きものと異なる点は、神が人の鼻に「いのちの息」(「ニシュマット・ハッイーム」נִשְׁמַת חַיִּים)が吹き込まれたからにほかなりません。
  • 名詞の「食物、食べること」を意味する「オフラー」(אָכְלָה)は18回。その初出箇所は創世記1章29節です。

【新改訳2017】創世記1章29~30節
29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。

  • 人の食物は創造時には草食でしたが、ノアの箱舟以降、生きて動いているものはみな(動物も)食物となりました。

【新改訳2017】創世記 6章21節、9章3節
6:21あなたは、食べられるあらゆるものか(「マアハール」מַאֲכָל)ら採って、自分のところに集め、
あなたとそれらの動物のための食物(「オフラー」אָכְלָה)としなさい
9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物(「オフラー」אָכְלָה)となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。

  • イスラエルの民が荒野で食べた不思議なマナは、主が彼らに食物(「オフラー」אָכְלָה)として与えたパンでした(出16:15)。それは彼らの生存のいのちを保つだけでなく、日々、神のことばに従って生きることを教えるためでした。「食べ物」は人にとって楽しみとなり、喜びをも意味します。同時に「食べる」という行為は神との交わりを意味していました。イスラエルの民が荒野でマナを食べさせられたのは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということ」(申命記8:3)を教えるためでした。 「御口から出るものすべてのことば」とは、すなわち神のことばを受け取り、それに聞き従うことで生きることを意味しています。すなわちそれは神との交わり、神とのかかわりを指し示しています。最初の人アダムにそのことが求められていましたが、彼はそれに失敗したために、イェシュアが「最後のアダム」となったのでした。エデンの回復であるメシア王国においても人は同様になるのです。
  • ところで、レビ記11章には「食べてよい生き物と食べてはならない生き物との区別」の規定が記されています。いわゆる「食物規定」と呼ばれるものです。ユダヤ人にとってはそれが今日もなお自分のたちの民族的アイデンティティとなっていますが、その意味するところを知らずに守っています。主が定められた「食物規程」が啓示している真理について見たいと思います。

【新改訳2017】レビ記11章2~3節
2イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。
3 動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。

【新改訳2017】申命記14章4~6節
4 あなたがたが食べてもよい動物は牛、羊、やぎ、
5 鹿、かもしか、のろ鹿、野やぎ、くじか、大鹿、野羊。
6 ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものはすべて食べてもよい。

  • レビ記11章では食べて良い生き物の例がひとつも記されていないのに対して、申命記はその例を具体的に示しています。いずれもその良い生き物の条件は、ひづめが分かれ、完全に割れている生き物であり、かつ反芻する生き物です。なかでも「牛、羊、やぎ」は神へのささげものとしての生き物であり、イスラエルにおいて家畜とされているものです。しかもすべて草食動物です。「反芻するもの」は、ヘブル語で「マアレー・ゲーラ―」(מַעֲלֵה גֵרָה)と表現します。「マアレー」(מַעֲלֵה)は「上げる、登る」を意味する動詞「アーラー」(עָלָה)を名詞化したもの、「ゲーラー」(גֵרָה)は「引っ張る、食い戻す」の動詞「ガーラル」(גָרַר)の名詞で、直訳は「食い戻しを上げるもの」で、「反芻するもの」と訳されています。
  • 「ひづめ」(「パルサー」פַּרְסָה)が「分かれている」(「パーラス」פָּרַס)もの。「(ひづめの)割れ目」(「シェサ」שֶׁסַע)が「割れている」ものという表現で、それぞれ同じ語彙が名詞と分詞で重ねられています。その強調表現を「ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの」と訳しています。
  • 反芻する生き物」と「ひづめが完全に割れている生き物」だけが、食べることのできる生き物です。ところで、なにゆえにそうなのでしょうか。聖書にはその説明が一切記されていません。しかし、それぞれ用いられている語彙の中にその秘密があるのです。一つは「反芻するもの」ということばの中にある「上る、登る」という「アーラー」(עָלָה)です。それはイェシュアが私たちの身代わりのいけにえとなるために、山の上にある町、すなわちエルサレムに何度も、あたかも「反芻する」かのように訪れています。あるいは神の歴史の中でこのエルサレムに上った人物がいます。アブラハム、ダビデ、そしてイェシュアです。イェシュアは神のご計画を実現するために、エルサレムに上った最後の人です。「反芻する生き物」とはこの方を暗示しているように思われます。もう一つは「ひづめが完全に割れているもの」の中にある「割れる、分かれる」という「パーラス」(פָּרַס)という語彙です。それには「(パンを)裂く、(パンを)裂いて分け与える」という意味があります。私たちの身代わりとしていけにえとなるイェシュアが十字架に掛けられる前の晩、弟子たちと最後の食事をしたとき、イェシュアがパンを裂いて弟子たちに与えます。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」と語っています(マタイ26:26)。
  • まさに、「反芻する生き物」であることと「ひづめが完全に割れている生き物」だけが食べることのできる生き物だとするその根拠は、そこに私たちの身代わりとなられるイェシュアの姿が啓示されているからなのです。したがって、この二つのこと(「反芻する生き物」であることと「ひづめが完全に割れている生き物」であること)を完全に満たさない不完全な生き物(たとえどちらか一方を満たしていたとしても)は、食べることはできないということです。
  • イェシュアがなされた「五千人の給食」の奇蹟はこのことを教えるものです。ここで一つ質問です。「五つのパンと二匹の魚」とは何を意味するのでしょうか。この奇蹟は、「五つのパンと二匹の魚というわずかなものを主にささげるならば、主はそれを何倍にもして祝福してくださる」という意味ではありません。「五つのパンと二匹の魚」が意味するのは、五つのトーラー(基本法としてのモーセ五書)と参考書としての「歴史書」と「諸書」の二つです。これを「二匹の魚」で表しています。すなわちユダヤ教のタナフ(私たちの言う「旧約聖書」)によって、大勢の人たちを「養った」という奇蹟です。しかも有り余ったパンくずはイスラエル全体を象徴する神の民である「12」のかごを常に満たすほどに豊かなのです。
  • 食べる」という出来事は他にもあります。復活後のイェシュアが漁をしていた弟子たちに対して「朝の食事をしなさい」と言って、パンと魚を準備されていたという出来事です(ヨハネ21:9~13)。弟子たちはこの食事にあずかりました。この話の中に、弟子のシモン・ペテロが引き上げた網には153匹の大きな魚でいっぱいであったという話があります。なにゆえに「シモン・ペテロ‥の網に153匹」なのでしょうか。「シモン」という名前の弟子はイェシュアが選んだ12弟子の筆頭です。それはイスラエルの代表を象徴し、しかも「シモン」という名は「神の声を聞く」という意味から来ています。そのシモンと153という数がどう結びつくのでしょうか。
  • 神とのかかわりを表わす「食べる」を意味するヘブル語の「アーハル」(אָכַל)ですが、このことばを構成している三つの文字、すなわち「アーレフ」(א)、「カフ」(כ)、「ラーメド」(ל)という文字から順に「1」+「10」+「40」=「51」という数字を導き出すことができます。シモン・ペテロはイェシュアの十字架の前にそのかかわりを「三度」否定しました。それに対しイェシュアは死からよみがえってから弟子たちにご自分を表わされたのは、「三度目」だとヨハネは強調しています(21:14)。さらにこの後 21章15節からの箇所で「三度」も「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか。」と尋ねられ、それに対してペテロは「はい。 主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」 と答え、彼とイェシュアとの関係の回復が「三度」確認されます。つまり神とのかかわりを表わす「アーハル」のゲマトリアは「51」ですから、これを「三度」繰り返すとその答え「153」となります。このように、ペテロが引き上げた「153」匹の魚とは、イェシュアとシモン・ペテロ、あるいは神とイスラエル、神と人との交わりの関係の回復を指し示している数と考えられます。そして 153 匹の魚 でいっぱいになった網が「破れなかった」ことにも、この回復された神と人との関係がもはや決して絶えることがないことが示されていると考えられます。イェシュアの「さあ、朝の食事をしなさい。」ということばの中に、神と人との親しいかかわりが示されているのです。それは教会に対しても語られています。

【新改訳2017】黙示録3章20節
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし(δειπνέω)、彼もわたしとともに食事をする

  • ギリシア原典では「食事をする」(「デイプネオー」δειπνέω)は1回のみ。この「食事」は御国における「祝宴」を意味します。ヘブル語聖書では「食事をする」という動詞を「アーハル」ではなく、「支える、元気づける」を意味する「サーアド」(סָעַד)を使っています。


2018.11.28

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