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2章10節「一つの川がエデンから湧き出て」


創世記2章10節

【新改訳2017】
一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。
それは園から分かれて、四つの源流となっていた。

【聖書協会共同訳】
エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、
そこから分かれて四つの川となった。

י וְנָהָר יֹצֵא מֵעֵדֶן לְהַשְׁקֹות אֶת־הַגָּן
וּמִשָּׁם יִפָּרֵד וְהָיָה לְאַרְבָּעָה רָאשִׁים׃

べレーシート

●エデンには「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木」が生えると同時に、「一つの川が湧き出て園を潤していた」とあります。エデンは「いのちの木」が象徴する神のみことばと共に無限の「いのちの水」によって潤され、渇くことのない世界です。「湧き出る」「流れ出る」と訳された「ヤーツァー」(יָצָא)はすでに創世記1章12節と24節でも使われていました。

【新改訳2017】創世記1章12節
地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。

【新改訳2017】創世記1章24節
神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。

●「ヤーツァー」(יָצָא)の使用頻度は1078回と多く、基本的には「出て行く、出て来る、離れ去る」という意味ですが、ヒフィル態では「連れ出す、運び出す、生じる、生む」という意味になります。創世記2章10節では「川が流れ出る」と意味で用いられ、これは黙示録22章1節の「神と小羊の御座から流れ出るいのちの水の川」につながります。流れ出る川は、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る(יָצָא)真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(ヨハネ15:26)とあるように、御霊を象徴しています。エゼキエル書47章には、聖所から流れてるいのちの水の川が流れ出て、その川が流れ行く所のすべてのものが生きるといヴィジョンが示されています。いのちの水の特性は、まさに「流れ出る」ことにあるのです。

●「園」を「潤す」と訳された「シャーカー」(שָׁקָה)もすでに2章6節で否定的に使われていました。「シャーカー」は「水を注ぐ、水を飲ませる」の意味にも使われます。これは聖霊を表わす象徴です。イェシュアはサマリアの女にこう言われました。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます(「ナーヴァ」נָבַע)。」(ヨハネ4:13~14、新改訳2017)とあるように、まさに人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が勢いよく湧き出ることをイメージさせます。これはまさにエデンの園の回復を意味しています。

1. 「一つの川」

●エデンから湧き出る「一つの川」は「ナーハール」(נָהָר)の単数形です。エデンから湧き出る川は四つの川となって分かれ出ました。四つの川の「源」(複数)が「ラーシーム」(רָאשִׁים)です。ここでの源流は単数であるべきはずですが、なぜか複数形です。これは神を意味する「エローヒーム」(אֱלֹהִים)、いのちを意味する「ハッイーム」(חַיִּים)と同様、神の畏敬を表す語彙なのかもしれません。

●「源流」(「ラーシーム」רָאשִׁים)の語源は「ローシュ」(רֹאשׁ)で「頭、かしら」を意味します。それはキリストを意味する語彙でもあります。なぜなら「神は・・キリストを、すべてのものの上に立つかしら(רֹאשׁ)として教会に与えられました」(エペソ1:22)とあるからです。また「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしら(רֹאשׁ)です」(コロサイ 2:10 )とも記されています。


2. 「四つに川に分かれ」

●聖書の「四」は「すべて」「すべての面において」「全世界」を意味する数です。「源流が四つの川に分かれていく」のは、祝福の源泉であるキリストのいのちが全世界に流れ出て行くことをイメージさせます。そして「分かれる」と訳された「パーラド」(פָּרַד)は、洪水後に地上の諸民族がノアの三人の息子から「分かれ出た」というところでも使われています(創世記10:32)。また、神の計画を担う民の本流と支流を「分ける」という意味でも使われています(創世記13:9)。いのちの系列と死の系列、「いのちの木」と「善悪の知識の木」の系列、この二つの系列(「トールドート」תּוֹלְדוֹת)が明確にされていくことが神の歴史なのです。

●また逆に、神のご計画においては、全世界に、四方に「離散した全イスラエル」が、最終的に集められて、聖なる都エルサレムに連れ戻されます。それはエゼキエルが預言している通りです。

【新改訳2017】エゼキエル書 37章21 節
彼らに告げよ。『【神】である主はこう言われる。見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地(=エルサレム)に導いて行く。』

※ちなみに、このエゼキエル37章には四つの「アーラー」(עָלָה)が使われています。この語彙の初出箇所は創世記2章6節の「豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた」ですが、エゼキエル37章6, 8節では「肉を生じさせ」、12,13節では「墓から引き上げて、イスラエルの地へ連れて行く」で使われています。「アーラー」(עָלָה)は神の目的地に向かせるさまざまな動きをイメージさせる語彙と言えます。


2020.4.15
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