****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

1章9~10節


創世記1章9~10節

【新改訳2017】

9 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。

ט וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יִקָּווּ הַמַּיִם מִתַּחַת הַשָּׁמַיִם
אֶל־מָקֹום אֶחָד וְתֵרָאֶה הַיַּבָּשָׁה וַיְהִי־כֵן׃

10 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。

י וַיִּקְרָא אֱלֹהִים ׀ לַיַּבָּשָׁה אֶרֶץ וּלְמִקְוֵה הַמַּיִם
קָרָא יַמִּים וַיַּרְאאֱלֹהִים כִּי־טֹוב׃

ベレーシート

●ここでは9節と10節を合わせて取り上げます。第三日は9~13節までです。第三日の特徴は「乾いた所が現れること」です。そしてそのところに種のできる草や種の入った実を結ぶ果樹が芽生えることです。このことは何を意味しているのでしょうか。

1. 「集める」とは

水のただ中に -B.png

●9節に神は「乾いた所が現れる」ために、「天の下の水は一つの所に集まれ」と仰せられます。それまで「乾いた所」は水の中に隠れていたことになります。しかし水が「一つ所」(「マーコーム・エハード」מָקוֹם אֶחָד)に集められることによって、「乾いた所」(地)と「水」(海)が区別され、境界線が設定されます。「集まる」と訳されたヘブル語は「カーヴァー」(קָוָה)です。この語彙が同じ意味で用いられている箇所はエレミヤ記3章17節です。

【新改訳2017】エレミヤ記3章17~18節
17 そのとき、エルサレムは【主】の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、【主】の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。
18 その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。


●18節の「その日」とは、終わりの日のことで、ユダの家とイスラエルの家とがともにエルサレムに帰還する日のことです。「そのとき」(17節)、「万民の民」(כָל־הַגּוֹיִם)もともにエルサレムに集められることが預言されています。このように、「集める」とはイスラエルの民と諸国の民との間には「境界線」があることを示唆しています。しかし、終末においては(イェシュアの十字架と復活以後には)、それがなくなるのです(エペソ2:11~22)。


2. 「ヤッバーシャー」(乾いた所)とは

●「上の水」と「下の水」を分けて、大空(「ラーキーア」רָקִיעַ)を造り、そこを「天」(「シャーマイム」)と名づけられたあと、神は「下の水を分けて、そこに乾いた所と海」とに分けられます。神は「乾いた所」を「地」と名づけられますが、なにゆえに神は「乾いた所」という表現を用いたのでしょうか。それを調べていくと、その「乾いた所」がイスラエルと深く関係していることが分かるのです。

ヤッバーシャー.PNG

●「乾いた所」と訳されたヘブル語は「ヤッバーシャー」(יַבָּשָׁה)です。旧約で14回しか使われていません。それらをひとつひとつ見ていくことで、この語彙がイスラエルにおいて特別な出来事と関係していることが分かるのです。

太字の部分は訳語が異なっても、すべて「ヤッバーシャー」(יַבָּשָׁה)が使われています。新改訳2017だけでも、以下のように、「乾いた地面」「乾いた所」「乾いたところ」「陸」「陸地」と訳されています。

(1)「紅海渡渉をした所」
①出エジプト記14章16節
あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。
②同上、14章21節
モーセが手を海に向けて伸ばすと、【主】は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地(חָרָבָה)とされた。注1。水は分かれた。
③同上、14章22節
イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
④同上、14章29節
イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。
⑤同上、 15章19節
ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、【主】は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。
⑥ネヘミヤ記 9章11節
あなたは私たちの先祖の前で海を裂き、彼らは海の真ん中の乾いた地面を渡りました。追っ手は、奔流に呑み込まれる石のように、あなたが海の深みに投げ込まれました。

(2)「ヨルダン渡河をした所」
ヨシュア記4:22
あなたがたは子どもたちに『イスラエルは乾いた地面の上を歩いて、このヨルダン川を渡ったのだ』と知らせなさい。

(3) (1)と(2)を結合させた言及
詩篇 66篇6 節
神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ私たちは神にあって喜ぼう。

「乾いた所」はイスラエルの救いの場として、また、そこに神がともにおられることを啓示しています。つまり、「乾いた所」(「ヤッバーシャー」יַבָּשָׁה)は、神とイスラエルとの関係が築かれる基礎的な場所だったと言えます。

(4) 終末時になされる神のみわざの場所として
イザヤ書 44節
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。

(5) イスラエルの象徴として
出エジフト記4章9節
もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面(יַבֶּשֶׁת)の上で血となる。注2

(6) イスラエルが使命を果たす地として
①ヨナ書1章9節
ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は、海とを造られた天の神、【主】を恐れる者です。」
②ヨナ書1章13節
それでも人々は船をに戻そうと漕いだが、そうすることはできなかった。海がますます彼らに向かって荒れてきたからである。
③ヨナ書2章10節
【主】は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。

預言者ヨナの行動と使命はイスラエルを代表しています。また、大きな魚の腹の中にいたヨナが陸地に吐き出されたのは、イェシュア・メシアの十字架の死と復活のしるしとされています。これもヨナが預言者イェシュアの型となっています(マタイ12:39、16:4)。それだけでなく、イスラエルがメシアを信じる14万4千人となって異邦人(諸国の民)を祝福する使命の型となっているのです。これはやがて大リバイバルとなって実現します(マタイ24:14)。

●「乾いた所」を「地」と名づけられましたが、「地」と不可分な関係にあるのは「イスラエルの民」なのです。

【新改訳2017】ヨエル書 2章18節
【主】はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。

●「自分の地」と「ご自分の民」とは同義的パラレリズムです。なぜなら、主のご計画は「ご自分の民」に地を支配させることだからです。教会は彼らに接ぎ木されることで神の約束にあずかるのです。その究極は詩篇8篇に啓示されてあります。
「主よ 私たちの主よ、あなたの御名は全地にわたり
なんと力に満ちていることでしょう。」(1, 9節)


3. 「海」がなぜ複数形なのか

●「乾いた地」が単数形であるのに対して、ここでの「海」は、なぜか「ヤーム」(יָם)の複数形「ヤッミーム」(יַמִּים)となっています。普通「海」は単数形ですが、ここでなにゆえに複数形なのかということです。

●おそらく「乾いた地面」に象徴されるイスラエルに対して、それに敵対する国々を「海」としているのかもしれません。イスラエルに敵対する国々とは、イスラエルと接している国々と言えます。たとえば、エジプト、アッシリア、バビロン、エドム、モアブ、ペリシテ、ツロ、シドンといった国などがそうです。イスラエルの周辺諸国はすべて「ヤーミーム」(יַמִּים)に括られると考えられます。ちなみに「海の荒野」(イザヤ20:1)と言えば、それはバビロンのことなのです。

●「乾いた所」と「海」の境界線は明確であり、神がその境界線を守っているとエレミヤ書にあります。

【新改訳2017】エレミヤ書5章22節
あなたがたは、わたしを恐れないのか。──【主】のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。

●決して「越えることはできない」海(諸国)が、境を越えて砂浜(イスラエルを象徴)を越えて来るのは、イスラエルが神の声を聞こうとしないからです。そのようにして、神は諸国である海を通して、繰り返してご自身の民イスラエルをさばき、矯正されるのです。

●創世記1章9~10節の

9 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。
10 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。

神は「乾いた地面」に象徴されるイスラエルの民と、それを矯正するために神に用いられる諸国に象徴される「海」とに、はっきりと分けられました。そしてそのことを神は「良しと見られた」のです。なぜなら、それは神のご計画がみこころのままになされていくためです。究極的には、神の創造される「新しい天と新しい地」ではもはやイスラエルに敵対する「海」は存在しません(ヨハネの黙示録21:1)。


注1
ここでは「乾いたところ」の語彙が「ハーラーヴァー」(חָרָבָה)となっていますが、意味としては「ヤッバーシャー」と同じ意味で使われています。

注2
ここでは「乾いた地」がイスラエルと同義で用いられ、彼らの要求を拒絶することは、神に対して反抗するものとして、神のさばきがもたらされるという警告的な意味となっています。そして、事実、エジプト中の水が血に変わるということが起こりました(出7:20~25)。


2019.12.31
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