****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

1章27節


創世記1章27節

【新改訳2017】

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

כז וַיִּבְרָא אֱלֹהִים ׀ אֶת־הָאָדָם בְּצַלְמֹו בְּצֶלֶם אֱלֹהִים
בָּרָא אֹתֹו זָכָר וּנְקֵבָה בָּרָא אֹתָם׃

1. 三度繰り返される「創造する」は何を意味するのか

●27節の「神は人をご自身のかたちとして創造された」は、「ツェレム」(צֶלֶם)が二重に重ねられて強調されています。原文では「ヘツァルモー・ベツェレム」(בְּצַלְמֹו בְּצֶלֶם)で、「ご自分のかたちにかたどって」という意味です。また、人が神のことばによって創造されたということを、「創造した」(「バーラー」בָּרָא) という動詞を三度も重ねて強調しています。26節では「われわれは造ろう」の「造ろう」は「アーサー」(עָשָׂה)が使われていました。それはその原型がすでにあって、それに似せて造ろうということであったのですが、27節では「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」と三度も「バーラー」(בָּרָא)が使われているのはなぜでしょうか。

●この創世記1章が書かれた時代、あるいはそれが編集された時期がイスラエルの民が神のかたちを失ってバビロン捕囚の経験していたことを思えば、納得できる話なのです。「バーラー」の三度重ねられているのは、神の救いのご計画における歴史的出来事を通して、「神は人をご自身のかたちとして、人を神のかたちとして、人を男と女に」創造するということを強調しているものと考えられます。創世記1章の創造は常に2節にある「地はトーフー・ヴァーヴォーフー」の状態であったことを思い起こす必要があります。しかも「創造する」は完了形です。つまり、創世記1章はそのような人を最終的に神が創造するのだという神のご計画が記されたものだと考えることができるのです。ちなみに、「バーラー」(בָּרָא)という語彙には、「御子」である「バル」(בַּר)、あるいは「ベーン」(בֵּן)の頭文字「בּ」があり、神を意味する「エローヒーム」(אֱלֹהִים)の頭文字「א」があり、その間に聖霊を意味する「ルーアッハ」(רוּחַ)の頭文字「ר」があります。つまり、「バーラー」の語彙の中に「御父・御子・御霊」が隠されており、それが三人称単数で使われており、「三一」の神を表していると言えます。

●人(「ハーアーダーム」הָאָדָם)が、ここで「男」を意味する「ザーハール」(זָכָר)と、「女」を意味する「ネケーヴァー」(נְקֵבָה)とに創造されています。それぞれ子孫を造っていくための性としての男性と女性、雄と雌という意味でもあります。「ザーハール」(זָכָר)の語源は「ザーハル」(זָכַר)で、神が主語である場合、「心に留められている、覚えられている」という意味ですが、人が主語になる場合、神が遠いと思われている時に神の名を呼び、神の前で生きようとすることです。妻、それは神との交わりに参与することを意味します。それゆえ、思い起こすということは、神を追い求め、神に思いを至らせ、神に祈ることを意味します。そこから派生する名詞「ジッカーローン」(זִכָּרוֹן)は「記念、象徴物』を意味し、男根器を意味します。聖書でいう「記念」とは、神によるイスラエルの救いを中心とする旧約の歴史的事実を思い起こすことを言います。その旧約はすべて「最後のアダム」、すなわちキリストについて記されているとすれば、男がなぜ「ザーハール」と呼ばれるのかが理解できます。以下がその根拠です。

(1) 主によって制定された「主の食卓」
【新改訳2017】マタイの福音書26章26~29節
26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

(2) 主を記念とする
【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙11章23~26節
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
※「わたしを覚えて」(לְזִכְרִי)・・「わたしを記念として」。「記念とする」とは、イェシュアがなされたすべてのことを味わうとともに、それを享受することを意味するのです

●そして「女性」を意味する「ネケーヴァー」(נְקֵבָה)の語源「ナーカヴ」(נָקַב)には「突き通す、冒涜する」という意味があり、これは「最後のアダム」にした行為と関係があります。イスラエルの民はメシアとして神に遣わされた最後のアダム対して冒涜して殺したのです。しかしその「最後のアダム」は復活することで、女である「教会」が誕生し、さらに「イスラエルの残りの者」が生まれて、メシア王国の中に入ることかでき、そこで「星の数ほどの子孫が生まれる」という神の計画が実現し、そして地を支配するものとなるのです。

  • 男性は「種」(「ゼラ」זֶרַע)を持つ存在であることが重要です。でなければ、「生めよ、増えよ、地を満たせ」という神の命令を実現することはできません。種を有する男は女の存在がなければ、この命令を実現することができません。Ⅰテモテ2章15節の「女は、・・子を産むことによって救われます」とは、キリスト(男)と教会(女)のかかわりを意味するとも考えられます。それゆえ、女の語源「ナーカヴ」(נָקַב)には神のご計画を担う者として神が「指名する」という意味があるのです。

●人が男と女とに造られたのは関係性を意味します。この関係性である「知る、知り合う」(「ヤーダ」יָדַע)という一体(「エハード」אֶחָד)性のオリジナルは神のうちにあるものです。特に最後のアダム(イェシュア)の場合(こちらが本体なのですが)、男と女の知り合う関係性は、メシアであるイェシュアとイスラエル、および教会との関係として現わされます。

●イスラエルも教会も、イェシュアの種によって子を産むという使命が達成されるように計画されているからに他なりません。神は「人をわれわれのかたちとして」造ろうということばの中に、「永遠の愛によって、知り合うという交わりの一体性」という「神のかたち」として人を創造しようとされたのです。そのことを、神は歴史的な出来事を通して創造しようと計画されたのです。

2. 「神のかたちに創造された人(アダム)」は、神を表現する

神はご自身を表すための器として人(アダム)を創造されました。アダムは集合人格です。それはアダムの中にすべての人が創造されたことを意味します。ローマ書5章14節によれば、最初の人(アダム)はキリストの型でもあります。御子(キリスト)は見えない神のかたちです。ですから、最初のアダムは御子(キリスト)
を表すために創造されたと言えます。最初のアダムは御子を入れる容器にすぎません。人は神のかたちである御子(キリスト)に従って造られました、その御子が「最後の人アダム」としてこの世に来られたのは、死と復活を通して、「最初の人アダム」が神のいのちを回復し、本来、与えられていた「神のかたち」を完全に取り戻すためだったのです。それは奥義です。このことによって、 人は創造の冠として、神の栄光を表す特権的存在となるのです。

2020.2.19

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