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1章11節


創世記1章11節

【新改訳2017】

神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。

יא וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים תַּדְשֵׁא הָאָרֶץ דֶּשֶׁא עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע
עֵץ פְּרִי עֹשֶׂה פְּרִי לְמִינֹו אֲשֶׁר זַרְעֹו־בֹו עַל־הָאָרֶץ וַיְהִי־כֵן׃

「(上段)ヴァッヨーメル エローヒーム タドゥシェー ハーアーレツ デシュ エーセヴ マズリーア ゼラ」
「(中段)エーツ ペリー オーセ ペリー レミーノー アシェル ザルオー・ヴォー アル・ハーアーレツ」 
「(下段)ヴァイェヒー・ヘーン」

ベレーシート

●下の水を「乾いた所」(地)と「海」に分かれた後に、神は「地」に対して「地の上に芽生えさせよ」と指示(命令)します。まだ太陽も造られていないのに、なぜ植物が芽生えるのかと疑問に感じるかもしれませんが、創世記1章は自然科学や創造科学の視点から書かれていないということを銘記しなけければなりません。
地が種を持つ草や木が実を結ぶことを、神がしようとしているのです。やがて地の「乾いた所」を通っていく者たちがいるのです。そして、その者たちが草や果樹を食べて実を結ぶようになることを神は期待しているのです。

●神は直接植物に命じて生えさせたのではなく、地に呼びかけて、芽生えさせるように命じました。その地は「良い地」でなければならないのです。神はエジプトから救い出した民に、良い地である「乳と蜜の流れる地」を与えようとされる方です。これは「御国」の型です。

【新改訳2017】。出エジプト記 3章8節
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。

●イェシュアが語られた「種蒔く人のたとえ話」(マタイ13章)があります。「種」とは「神のことば(=御国の福音)」で、「種蒔く人」と神の御子イェシュアのことです。「地」とはイスラエル、あるいは私たちのことです。良い地に種が蒔かれるなら、多くの実(百倍、60倍、30倍)を結ぶとあります。

1. 地は植物を「芽生えさせよ」

●「芽生える」と訳されたヘブル語は「ダーシャー」(דָּשָׁא)で女性形ですが、それを名詞にすると「植物、若草、草、緑の牧場」を意味する「デシェ」(דֶּשֶׁא)と男性形になります。有名な詩篇23篇2節に「主は私を緑の牧場に伏させ」とありますが、その「緑(青草)」が「デシェ」です。そこでは、「私」は「羊」に例えられているのですが、そうした「草」を食べられるためには、植物が「種」(「ゼラ」זֶרַע)を有していなければなりません。ですから、地は「種のできる(「エーセヴ」עֵשֶׂב)や、種の入った実を結ぶ果樹(「エーツ」עֵץ)」を芽生えさせる必要があるのです。ちなみに、「種のできる草」と「種の入った実を結ぶ果樹」というフレーズは、創世記1章11~12節にしか出てきません。

●「芽生える」と訳された「ダーシャー」(דָּשָׁא)という語彙は、この箇所(1:11)の他に、もう一箇所あります。それはヨエル書2章22節です。

【新改訳2017】ヨエル書2章21~24節
21 地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。【主】が大いなることを行われたからだ。
22 野の獣たちよ、恐れるな。荒野の牧草が萌え出で、木が実を実らせ、いちじくとぶどうの木が豊かに実る。
23 シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。
24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。

●22節ある「野の獣たち」は、創世記1章24節では「家畜」(「ベヘーマー」בְּהֵמָה)と訳されています。「ダーシャー」(דָּשָׁא)は「萌え出で」(新改訳2017)と訳されています。ヨエルのこの預言は、メシア王国において、主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれみ、大いなることをしてくださるというものです。イナゴの大軍(イスラエルの敵)によって荒野(「ミドゥバール」מִדְבָּר)となってしまった地(「アダーマー」אֲדָמָה)と野の獣(「ベヘーマー」בְּהֵמָה)に対して、牧草が萌え出で、木が実(「ぺリー」פְּרִי)を実らせ、いちじくとぶどうの木(「エーツ」עֵץ)が豊かに実るという預言です。いちじくの木もぶどうの木、そして油を造り出すオリーブの木もみなイスラエルを象徴する木です。それらの実が実るというのは、創世記1章の成就・回復がなされることを意味します。


2. 「種」が意味するもの

●「種」(「ゼラ」זֶרַע)とは、イェシュアが天の御国の奥義を話したとき、「種を蒔く人のたとえ話」(マタイ13章、マルコ4章)をされました。つまり、「種」とは「神のことば」「福音」、あるいは「イェシュア」のことです。「種」(ゼラ)は男性形単数です。それに対して、「地」「草」「木」は女性形です。実を結ぶためには「種」が不可欠です。「種」は男性しか持っていません。つまり、「種」とは「神のことば」そのものであり、「イェシュア」自身が隠されているのです(ヨハネ1:1)。人が神によって生きるためには、新しく生まれなければなりません。そのためには、朽ちることのない種、つまり、「神のことば」が必要なのです。

【新改訳2017】Ⅰペテロ書1章23~25節
23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。


(1) 出エジプトしたイスラエルの民の最初の奇蹟

●神の民イスラエルは、紅海の水が分かれてできた「乾いた所(海の真ん中のかわいた地)」を通って出エジプトを果たしました。その民にとって無くてはならないものは、目に見える草ではなく、神のことば(神の教え)でした。それゆえ、神は彼らが神のことばによって生きることができるように数々の奇蹟をされました。その最初の奇蹟がこれです。

【新改訳2017】出エジプト記15章22~26節
22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
25 モーセが【主】に叫ぶと、【主】は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
26 そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」

●23節に「マラの水は苦くて飲めなかった」とあります。そこで民はモーセに不平を言った時、主は彼に「一本の木」を示されました。「一本の木」と訳されていますが、それは「木」が単数形であるからです。聖書において「木」は神のことばの象徴です。モーセが主が示されたとおりにその「木」を水に投げ入れると、水は甘くなったとあります。これは出エジプト後の最初の奇蹟です。「示された」ということばは「ヤーラー」(יָרָה)ですが、これが名詞になると「神の教え」を意味する「トーラー」(תוֹרָה)です。

●また、「甘くなった」ということばは「マータク」(מָתַק)で、その意味するところは「神との交わりを楽しむ」ということです。神はこの奇蹟を通して、神のみことばによって歩むことの大切さを教えられたのでした。神の「トーラー」は、実は「イェシュア」のことをあかし(証言)しているのです(ヨハネ5:39)。


(2) 終わりの日の預言にある「種」

●イスラエルの預言者にホセアがいます。主はホセアに「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ」と命じます。そこでホセアは行ってゴメルをめとるのです。夫の「ホセア」は「主は救い」という意味で、妻の「ゴメル」の意味は、動詞「ガーマル」(גָּמַר)の「(失敗して)断たれる」という意味と、「(主によって)成し遂げられる」という意味の二面性をもった語彙です。なにゆえにその両義性が成り立つ(実現・成就する)のかと言えば、彼らの息子の名前にその秘密が隠されています。

●彼らの第一子の名前「イズレエル」(יִזְרְעֶאל)という文字の中に「זרע」があります。「אל」は「神」を意味します。つまり、「イズレエル」とは「神が種を蒔く」という意味になります。動詞の「ザーラ」(זָרַע)は「種を蒔く」という意味の他に、二つの意味を持っています。一つは「散らされる」という意味と、もう一つは「実を結ぶ」という意味です。前者はさばきとしての離散を意味し、後者は神のあわれみによって回復することを意味しています。ホセア書1章4~5節の「イズレエル」は前者の意味で使われ、11節の「イズレエル」は後者の意味で使われています。つまり、「両義性」を持つ語彙です。Hebrewにはこうした「両義性」を持つ語彙があること特徴です。

【新改訳2017】ホセア書1章4~5、11節
4 【主】は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。
5 その日、わたしはイズレエルの平原で、イスラエルの弓を折る。」

11 ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。

●なぜ、地に「種のできる(「エーセヴ」עֵשֶׂב)や、種の入った実を結ぶ果樹(「エーツ」עֵץ)」を芽生えさせる必要があるのか、ホセアが姦淫の女ゴメル女と結婚し、彼らに子が生まれ、その名を「イズレエル」としたことから、その必然性を理解することができます。つまり、創世記1章11節は、「乾いた所」を歩む神の民に対する、神にしか成し得ない新しい創造、すなわち「ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る」という神のご計画の書と言えるからです。



●生物学的に、植物は種をつくるものと種をつくらないものが存在します。種をつくる植物のことを種子植物と言います。しかし、植物の中には種子(種)をつくらずに子孫をのこそうとするものもあります。種子を作らない植物は、胞子といって、自分の分身を作り出して増えます。シダ類、コケ類、藻類がそうです。しかし、創世記で言われている「種のある草」や「種の入った実を結ぶ果樹」とは、上記のいう生物学的な植物を意味してはいません。聖書の「種」とは、あくまでも、いのちをもった「神の種」「朽ちない種」「義の実を結ばせる種」であり、「神のみことば」、すなわち「イェシュア」を意味しているのです。


2010.1.7
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