****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

<はじめに>

<はじめに>

  • 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上で最高のテキストです。本篇は、詩篇を窓にして、聖書全体に思いを馳せながら、少しでも、神をより深く、より親しく知るための瞑想のための手引きです。
  • キリスト教の歴史においては、詩篇の瞑想の長い歴史があり、特に、修道院では聖務日課として必須のものでした。知性的な瞑想から黙想(沈黙)へ、そして観想の世界へ。それはもう言葉ではなく、五感のすべてを通して神を味わう世界です。主にある者が、共に、詩篇の瞑想を分かち合うなら、より豊かな永遠のいのちの世界が開かれてくると信じます。
  • 祈りの世界には、口頭の祈り、瞑想の祈り、黙想の祈り、観想の祈りの領域があります。この四つの領域は段階的に別々のものとしてあるのではなく、相補性の関係にあります。ひとりの人の中に四つの領域が同時に存在しているのです。神のことばについて知性的に十分な理解ができなくても、感性の世界を経験できます。ことばによる祈りが上手にできず、その表現が幼稚であったとしても、神を感じ、神を味わい、神を愛することができるのです。感じる領域、それは観想の祈りの領域なのです。
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  • 声を出す口頭の祈りとは異なり、瞑想、黙想、観想の祈りは沈黙の祈りです。知性と感性によって、神と触れ合う祈りです。
  • 瞑想の祈りは、神について、あるいは神のことばを、知性をもって思索しながら、神と交わりをする領域です。この領域を豊かにするためには、毎日、私たちが食事をするように、また幼児が食物をしっかりと噛みながら栄養を取って成長していくように、神の子どもである私たちも神のみことばを毎日読み、絶えず学び続ける訓練が必要です。
  • 黙想の祈りは、瞑想の領域にあるものを、沈黙の中で熟成させる領域です。味噌や醤油、あるいはぶどう酒などは樽の中に入れられて、じっくりと寝かせられ、熟成させて作られるものです。寝かせれば寝かせるほど、熟成度は高くなり、良質のものが出来上がります。神のみことばの知性的な蓄積も、静かな沈黙の中で熟成されていきます。芸術家たちは、ひとたび与えられた感動を直ぐに人と分かち合うことを拒みます。彼らはその感動を心の中で熟成させ、それがあるひとつの表象となるまで沈黙するのです。この黙想の領域は大切です。それは神との沈黙の交わりです。ことばに出して表現する必要はありません。自分の口からやがて出てくるのを待つのです。それは文章化されたものであったり、賛美の歌として歌われるものであったりするかもしれません。
  • 観想の祈りの領域は、感覚の領域です。感じる世界です。たとえば、「私は神の愛を感じます。」「神の御手が私の上に置かれているのを感じます。」「神の優しい御声が聞こえます。」「神の御顔(スマイル)が見えます。」「ここには神の臨在の香りがします。」「神のみことばは私の口に甘く、おいしく感じられます。」・・・・このような表現は、霊的な五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚)で神を感じ、神と交わっているのです。
  • 私たちも自然の中に身をおくことで心の安らぎや癒しを体験します。そこでは自然についてのなんら知識がなくても、鳥の声や水の流れや風の音を聞き、緑豊かな景色や樹木のさまざまな形をした葉を見、花の匂いを嗅ぎ、樹木の肌に触れ、時には、実を食べて味わったりします。そのようにして自然と触れ合いをもつことができます。これは、観想の世界と言えます。特に、この観想の領域に敏感な人は、ある意味で直感型(ヨハネ・タイプ)と言われる人かもしれません。あるいは、瞑想の領域に秀で、ことばで説明しないと気がすまない人は、論理型(パウロ・タイプ)と言われる人かもしれません。私たちの中にはその双方が与えられていますが、人によってその比率が違うだけです。神を認識する方法や領域に違いがあったとしても、それらの相補性を私たちは大切にしていくべきです。
  • 詩篇には、口頭の祈り、瞑想の祈り、黙想の祈り、そして観想の祈り、そのいずれもが織り込まれているのです。

<瞑想とは>(1) 知性による熟考の訓練

  • スポーツ選手はたゆまず練習して自分を訓練し、技術を磨き、経験を積むように、詩篇の瞑想もそれと同じく専心さを必要とします。瞑想とは、全人格を傾けて神のみことばを聞き、神が私たちに望まれる生き方をするために、知性をもって熟考することを意味します。ゆっくりと、時間をかけて、神を知り、神の世界に生きる喜びを味わう世界―それは測り知れないほど心の満足をもたらすことと信じます。そのためには、現代の多忙さと喧騒、そして気まぐれな風潮の中にあって、神に専心する自分の時間を取り戻す努力ー意識改革、生活改革ーが求められます。

<瞑想とは>(2) 神を深く知ること

  • 詩篇の瞑想の旅は、神をより深く知ることであり、神と共に生きる道や知恵を模索することです。旧約時代の人々が神からの啓示によって、神をどのように受けとめ、神を体験したのか、神の救いの歴史のパノラマをどのように見ていたのか、また人間というものをどのように理解していたのか、など、整理しながら把握できるようにすることが大切だと信じます。歴史の行き着くところ、あるいは、死の彼方がどうなっているのか、それを知らずして聖書のいう希望は到底共有できないからです。人間の理解においても、神に愛されているかけがえのない存在という面だけでは不十分です。その深い原罪性の面も、詩篇の作者たちには目が開かれています。救いはそうした理解(認識)のもとに受けとめられているのです。
  • 詩篇を瞑想するとき、感情的な面ばかりではなく、もっと視野を広げて、彼らの世界観にも目を留めることで、詩篇はさらに味わい深いものとなっていくと信じます。

<瞑想とは>(3) 自分を深く知ること

  • 詩篇による瞑想を通して、神を知ることは、同時に、自分を知ることでもあります。私たちは自分のことを知っているようで、実は、自分が盲目であることを知らないのです。自分のことをだれよりも一番自分が知っていると思っていますが、本当は何も知っていないことが多いのです。そのために、神は私たちを、時折、ふるいにかけられます。それは、信頼の絆をより強めるためです。ふるいにかけられる中で、自分自身の内にある心の問題を直視することは、辛いことですが、やがて多くの実を結ぶようになると信じます。
  • イエスの語られた「種蒔きのたとえ話」を知っておられると思います。道端に蒔かれた種、岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、そして良い地に落ちた種、クリスチャンの多くの人が、良い地に落ちた種が多くの実を結んだことを知っています。しかし、自分自身が決して良い地ではなく、道端や岩地やいばらの地であることを素直に認める人は多くはないようです。瞑想は、神を知り、神を深く味わうことですが、同時に、信と不信の狭間で揺れ動く自分の心を鋭く見つめる勇気が必要です。

<瞑想とは>(4)  他者を深く知ること

  • 自分を知ることをとおして、はじめて他者をも知るようになります。他者と共感できます。自分を知ることは、神の愛のまなざしが必要です。その神のまなざしは自分が独自で生きているのではないことを知らしめられます。さまざまなかかわりの中で生かされていることを知ります。そのことを知るとき、他者に対する共感が生まれます。
  • 自分に対する神のまなざしは―思いやり、悲しみ、喜びー、そのまま他者に対するまなざしを育てていきます。共感、連帯といった意識を育てます。神と自分、自分と他者、他者と神とのかかわりは、それぞれ別のものではなく、密接な関係にあることを知るようになます。そこから、思いやりが生まれ、とりなしの世界が広がっていくのです。詩篇の世界はそうした意味で、自然界と同じように、かかわりの世界のたとえなのです。

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