****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

食事をする

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No.5 「食事をする」

【聖書箇所】

【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録3章20節
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

【新共同訳】 ヨハネの黙示録3章20節
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。


Greek;新約聖書の「食事をする」というギリシア語は二つあります。ひとつは普通の食事をするという意味の「アリスタオー」(ἀριστάω)で、もう一つは終末論的な意味合いを含んだ特別の食事(祝宴、婚宴、晩餐)を意味する「デイプネオー」(δειπνέω)です。上記の聖書箇所にある「食事をする」は後者の方です。また、前者の「アリスタオー」(ἀριστάω)を「朝食を摂る」(ヨハネ21:12)とし、後者の「デイプネオー」(δειπνέω)を「夕食を摂る」(Ⅰコリント11:25)として使い分ける場合もあります。

●黙示録3章20節にある「(戸の外に)立っている」を意味する「ヒステーミ」(ἵστημι)は現在完了形で、すでにイェシュアはそこに立っておられるという意味です。しかも「たたく」を意味する「クルーオー」(κρούω)は現在形で、開かれるまでイェシュアが心の戸口でたたき続けていることを意味しています。「(戸口)を開ける」を意味する「アノイゴー」(ἀνοίγω)はアオリスト。イェシュアのノックに応答して自発的に「開けた」ことを意味します。ここで使われている「宴会や祝祭での特別な食事をする」ことを意味する「デイプネオー」(δειπνέω)は未来形で、新共同訳は「共に食事をするであろう」と訳しています。これは御国における恵みに満ちた終末論的な食卓であり、神である主との永遠の交わりを意味しています。それゆえ、L.B.訳は「親しく語り合います。 そして、お互いに楽しい時を過ごすのです。」と訳しています。

●終末論的な食事を意味する「デイプネオー」(δειπνέω)は、黙示録3章20節の他に、①ルカ17章8節、②ルカ22章20節、③Ⅰコリント11章25節で使われています。名詞の「デイプノン」(δεῖπνον)は、「御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。」(ヨハネの黙示録19:9の箇所で、「婚宴」ということばに使われていること)が重要です。

Hebrew;「サーマド」(סָמַד)というヘブル動詞は、来客を迎える歓迎の食事を意味しています。初出箇所は創世記18章5節で、アブラハムが三人の訪問者を歓待する場面で使われています。「少し食べ物を持ってまいります」とアブラハムは述べていますが、実際に用意された食事は豪勢なものでした。パン菓子が焼かれ、子牛一頭がそのためにほふられたのです。

●御国の食卓も同様に、王様が食べるような、贅沢極まりないものです。まさにそれはエデンの園の特徴である、美味しいものを、思いのまま、食べることのできる恵みの世界です。ただし「食べる」とは、天に備えられている霊的な祝福を味わうことの比喩的表現でもあります。


  • キリスト教会で行われている「聖餐」は日常的な食事を越えた「キリストの現臨」としての食事です。また、神のご計画における「すでに、と、いまだ」にある終末論的食卓です。「聖餐」の中のイェシュアが差し出される「パンと杯」の中に御国の福音のすべてがあると言っても過言ではありません。しかし私たちの霊的な目が開かれていないと、「聖餐」は単なる形式に堕してしまう懸念があります。
  • 一枚の絵画を見て、その中に込められているメッセージを瞑想して、それを言葉にして表現しようとするならば、それは膨大な量となってしまいます。まさに「聖餐に与る」(ミサ)という行為の中に、神と人とが永遠に交わるすべての事柄がそこに秘められているのです。とすれば「聖餐」それ自体は、神と人との永遠の交わりの巨大なフォルダーだと言えます。したがってそこに込められている霊的現実を言葉にしようとすると多くの言葉が必要となるのです。それゆえ、神のご計画の奥義を言葉にして解き明かすとともに、聖餐に秘められた食卓の豊かさを味わうために、御霊の助けが不可欠となるのです。キリスト教会において、これは常に探求されるべき事柄です。
  • 以下のヨハネの福音書6章53~58、および63 節は、聖餐の瞑想のための最高のテキストだと信じます。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章53~58節、63節
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

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2017.10.23


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