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食べてよい生き物と食べてはならない生き物

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

11. 食べてよい生き物と食べてはならない生き物の区別

ベレーシート

  • レビ記1~7章では「いけにえの規定」について、8~10章では祭司職についての規定が記され、11~15章では聖別された民のあらゆる生活の領域における「汚れときよめに関する規定」が記されています。特に、11章は「食べてよい生き物と食べてはならない生き物との区別」の規定が記されています。いわゆる「食物規定」と呼ばれるものです。
  • この11章に記されている食物規定は、キリストの教会においては廃棄されていますが、ユダヤ人にとっては今日もなお自分のたちの民族的アイデンティティとなっています。要点は最後にある44~45節で、これは今日においても有効なメッセージです。
  • レビ記1章の平行記事は申命記14章に見られます。その箇所も比較対照しながら、見てみたいと思います。

1. 食べてもよい生き物

  • 2~3節に食べてもよい生き物が記されています。

【新改訳改訂第3版】レビ記11章2~3節
2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。
3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。

【新改訳改訂第3版】申命記14章4~5節
4 あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、
5 鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。


●レビ記11章では食べて良い生き物の例がひとつも記されていないのに対して、申命記はその例を具体的に示しています。いずれもその良い生き物の条件は、ひづめが分かれ、完全に割れている生き物であり、かつ反芻する生き物です。なかでも「牛、羊、やぎ」はいけにえとしてささげられる生き物であり、イスラエルにおいて家畜とされているものです。他の生き物もすべて草食動物です。

●「反芻するもの」は、ヘブル語で「マアレー・ゲーラ―」(מַעֲלֵה גֵרָה)と表現します。「マアレー」(מַעֲלֵה)は「上げる、登る」を意味する動詞「アーラー」(עָלָה)を名詞化したもの、「ゲーラー」(גֵרָה)は「引っ張る、食い戻す」の動詞「ガーラル」(גָרַר)の名詞で、直訳は「食い戻しを上げるもの」で、「反芻するもの」と訳されています。

●「ひづめ」(「パルサー」פַּרְסָה)が「分かれている」(「パーラス」פָּרַס)もの。「(ひづめの)割れ目」(「シェサ」(שֶׁסַע)が「割れている」ものという表現で、それぞれ同じ語彙が名詞と分詞で重ねられています。その強調表現を「ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの」と訳しています。

●「反芻する生き物」と「ひづめが完全に割れている生き物」だけが、食べることのできる生き物です。ところで、なにゆえにそうなのでしょうか。聖書にはその説明が一切記されていません。しかし、それぞれ用いられている語彙の中にその秘密があるのです。

●一つは「反芻するもの」ということばの中にある「上る、登る」という「アーラー」(עָלָה)です。それは、イェシュアが私たちの身代わりのいけにえとなるために、山の上にある町、すなわちエルサレムに何度も、あたかも「反芻する」かのように訪れています。あるいは神の歴史の中でこのエルサレムに上った人物がいます。アブラハム、ダビデ、そしてイェシュアです。イェシュアは神のご計画を実現するために、エルサレムに上った最後の人です。「反芻する生き物」とはこの方を暗示しているように思われます。

●もう一つは「ひづめが完全に割れているもの」の中にある「割れる、分かれる」という「パーラス」(פָּרַס)という語彙です。それには「(パンを)裂く、(パンを)裂いて分け与える」という意味があります。私たちの身代わりとしていけにえとなるイェシュアが十字架に掛けられる前の晩、弟子たちと最後の食事をしたとき、イェシュアがパンを裂いて弟子たちに与えます。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」と語っています(マタイ26:26)。まさに、「反芻する生き物」であることと「ひづめが完全に割れている生き物」だけが食べることのできる生き物だとするその根拠は、そこに私たちの身代わりとなられるイェシュアの姿が啓示されているからなのです。したがって、この二つのことー「反芻する生き物」であることと「ひづめが完全に割れている生き物」であることーを完全に満たさない不完全な生き物(たとえどちらか一方を満たしていたとしても)は、食べることはできないということです。


●水中に住む生き物の中で食べてよいとされるのは「ひれとうろこを持つもの」だけです(レビ11:9)。しかし具体的な名前は一切記されていません。「ひれ」は「セナッピール」(סְנַפִּיר)、「うろこ」は「カスケセット」(קַשְׂקֶשֶׂת)で、なにゆえにこれらが食べてよいとされているのか、語彙的な面からその根拠を示すことは困難ですが、メシアニック・ジューのルス・スペクター・ラセール女史は「ユダヤ教の中のキリスト教」(小山大三訳、岐阜順福音出版社)の中で次のように述べています。

●「ひれ」は推進のためのもので、流れに逆らって泳ぎ、下の泥から離れることを可能にする。神の民は「ひれ」のあるきよい魚のように、泥の中を動くことや流れに身をまかせることを拒否し、流れに逆らって泳ぐべきである。きよい魚の「うろこ」は、泥水や汚染から身を守るためのものである。神の民は「うろこ」のあるきよい魚のように、世の中にあっても、この世のあらゆる不潔なものから保護され、「うろこ」に包まれているべきである(46頁)。

●また、魚のうちで「ひれとうろこのないもの」と言えばウナギやナマズが考えられます。ウナギは「蛇」の形に似ているから忌み嫌われるとしても、それが「食べてはならない」根拠とは考えられません。いずれにしても、神が「汚れたものときよいもの」「食べてよい生き物と食べてはならない生き物」とを区別された(「バーダル」בָּדַל)ということが重要なことなのです(レビ11:47)。


2. あなたがたは自らを聖別するなら、必ず、聖なる者となる

  • レビ記11章44~45節には「汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とを区別しなければならない」ということの神の目的と根拠が記されています。

【新改訳改訂第3版】レビ記11章44~45節
44 わたしはあなたがたの神、【主】であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。
45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

  • ここには、神の民が自分の身を聖別して、聖なる者となるべきことが記されています。それは「わたしが聖であるから」という神の本質に依拠するものです。
  • 主はアダムに対してそうであったように、神の民に対しても「区別する」ことを学ぶことがなければ、「死」が必然的にもたらされることを警告していました。私たちは、罪を犯させるような「善悪の知識の木」を神がエデンの園に置いたことがそもそも悪かったのだと考えます。しかし、やみの中から光を呼び出された神は、光とやみを「区別すること」をはじめから「良しとされた」のです。それは神が「聖なる神」であるからに他なりません。へブル語の「聖」(「コーデシュ」קֹדֶשׁ)は神の本性(本質)そのものにかかわる語彙です。それゆえ神は、目に見えるさまざまな領域において「区別する」ことを命じています。私たちは、創造の初めから神が聖であることを啓示していたことを知らなければなりません(創世記1:4, 6, 7, 18)。このことは、神と人とのかかわりにおいてきわめて重要な事柄であったのです。
  • 「聖」には「聖であるものと、聖でないものとを区別する」という「分離」の概念が含まれています。ところがサタンは、この「区別する」ことをなおざりにするために、狡猾な知恵をもって人に近づいたのです。この「区別することをなおざりにさせる」サタンの知恵が、神の創造した世界に「死」を招き入れてしまったのです。人間はこのサタンの狡猾な知恵に完全にだまされてしまいました。なぜなら、人は神のうちにある完全な永遠のご計画を十分に知らされていなかったとしか言いようがありません。
  • ひとたびこの「死」の力に支配され、その呪いの中におかれてしまった人間は、自分の力でその支配から逃れ出ることができない者となってしまいました。それゆえ、神の救いは死の力を持つサタンを滅ぼして、死の奴隷となっていた人々を解放するために、御子イェシュアをこの地に遣わし、十字架の死と復活によって救いの道を開いてくださる必要性がありました。この御子イェシュアの他に、死の力から逃れ出る者は誰一人としていないからです。そして神は救い出された者たちをいのちへと至らせるために、多くの時間をかけながら、「聖別すべきこと(区別すべきこと)、「分離すべきこと」を教えてきましたし、今もなお教え続けておられます(ローマ12:1~2、Ⅱコリント6:14~7:1)。

画像の説明

  • 旧約時代のユダヤ人たちは上のヘブル文字を見て、母音記号がなくても、「カーダシュ」(קָדַשׁ)、「カードーシュ」(קָדוֹשׁ)、「コーデシュ」(קֹדֶשׁ)と読めたはずです。

(1) 動詞「カーダシュ」(קָדַשׁ)
(Qal) 聖なるものとなる。 聖である。汚れていない。Set apart, sanctify
(Nif) (自分の)聖を現わす(示す)、聖とされる。
(piel) 聖別する。聖であるとする(宣言する)
(Hif) 聖別する。聖とする。取り分ける。
(Hithpael) (身を)聖別する。(身を)きよめる。聖なることを示す(レビ11:44)

(2) 形容詞「カードーシュ」(קָדוֹשׁ)
「聖なる、聖なる者、聖徒、holy」(出19:6、レビ7:6、11:44, 45、申7:6)。 連語形は「ケドーシュ」(קְדוֹשׁ)

(3) 名詞「コーデシュ」(קֹדֶשׁ)
名詞 「聖、聖なるもの、聖所、Holy」(470回) (出3:5/12:16/15:11、レビ2:3, 10/4:6/5:10)。「モーセ五書」での使用頻度は、創世記0回、出70回、レビ92回、民57回、申4回。


●「聖」は何よりも神ご自身の本質にかかわります。神はこの世界のあらゆる面に関与されるだけでなく、私たちの個人的な人生のあらゆる面にかかわられます。「神の民のめざす聖の概念」、それは神が世とかかわる旧約のストーリーにおいて叙述されています。「聖なる神」が歴史の中でご自身を啓示された出来事としては、燃え尽きない柴、エジプトからの分離(救出)、生存と防衛の保障(マナの供給、戦いでの静観)、幕屋における礼拝の細かい指示、食物規定、安息日の規定など。

●「聖別」とは、神の所有の民となり、神の聖を映し出す存在となることです。それゆえ、聖なる神はご自身の民に聖なる生き方の基準を啓示されました。ところがそのような生き方はリスクを伴うため、人間はそのリスクを回避しようとします。つまり、神の聖は、人の目には安全には見えないために、人は偽りの安全の罠にかかり、偶像礼拝へとつながった歴史があります。そうした生き方こそが「聖ならざる生き方」です。「聖なる民」としての生き方に忠実であろうとすれば、すべての領域について、神の恵みに信頼するほかありません。それゆえ、主にある者たちはこの世と調子を合わせることなく、心の一新によって神を信頼するという生き方へと自分を変えることが求められるのです。なぜなら、この世における神の民は「聖」をめざす旅へと召されているからです。その意味において、主にある者たちに対して語られた主の以下のことばを心にしっかりと留めなければならないのです。


●最後に、11章44節の文法解析は以下の通り。

画像の説明

  • ここで注目すべきことは、聖別する(「カーダシュ」קָדַשׁ)ことにおいて強意形のヒットパエル態が使われているという事です。「自分の身を」とか、「自ら」と訳されているように、聖別する主体的・自発的意志が促されているという点です。

2016.5.24


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