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霊によってエフライムの陥落を見たホセア(改)


9. 霊によってエフライムの陥落を見たホセア(改)

【聖書箇所】ホセア書 9章1~17節

ベレーシート

  • 北イスラエルの歴史を見ると分かるように、悔い改めて神に立ち返るということが如何に難しいことかを知らされます。そもそも北イスラエル(エフライム)の最初の指導者(王)であったヤロブアムは、神の命令や約束よりも、自分の心の思いによってボタンのかけ間違いを起こしました。このかけ間違いの結末はすぐには分かりません。ボタンのかけ違いに気づいた時にはすでに時遅しです。「ゆでカエル」の話のように、悲劇的な結末を迎えてしまうのです。
  • 預言者は神の霊によってその結末を見ることのできた人です。ですから、預言者の語ることに耳を傾けることで「ゆでカエル」の恐怖から逃れることができるのですが、人の心の思いはそう簡単にはいかないようです。今回のホセア書9章では、北イスラエルの結末を宣言する預言者とそれを拒絶する人々に注目したいと思います。主要聖句は7節です。

1. あざけられる預言者

【新改訳改訂第3版】ホセア書 9章7節
刑罰の日が来た。報復の日が来た。
イスラエルは知るがよい。
預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。
これはあなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。

フランシスコ会訳
「報いの日がきた。決裁の日がきた。」
イスラエルは叫ぶ、
「この預言者は愚かだ。霊の人は狂っている」と。
おまえの大きな不正のゆえに、
恨みが大きくなったのである。

●二つ目のかぎ括弧で括られた部分は、民、あるいは指導者たちが預言者を批判したことばです。関根訳は「預言者は馬鹿だ。霊の人は気が変だ」としています。しかし、そのように言うのは、イスラエルの民が神に対して多くの罪と多くの敵意をもっているからなのです。

  • 「刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい。」。ここにある「来た」という動詞は「預言的完了形」で、将来必ず実現することをあたかもそれが実現したかのように完了形で記されているのです。そして「イスラエルは知るがよい」と訳された「知る」は未完了形で、「知るようになる」という意味です。しかし、「知るようになる」ときにはすでに時遅しです。ですから、信仰が求められるのです。「刑罰」「報復」は共に決裁用語です。
  • 刑罰」と訳された語彙は「ペクッダー」(פְּקֻדָּה)で、その動詞「パーカド」(פָּקַד)は、9章9節の「罰する」で使われています。その理由は「彼らはギブアの日のように、真底まで堕落した」からだとしています。「ギブアの日」については士師記19〜21章に記されています。それは強姦と殺害の罪を犯した日のことです。
  • 報復」と訳された語彙は「シッルーム」(שִׁלּוּם)です。旧約ではここ以外に2回(イザヤ34:8/ミカ7:3)しか使われていません。この名詞の動詞は、「シャーレーム」(שָׁלֵם)の強意形ピエル態で「誓いを果たす」という意味でホセア書14章3節で使われています。
  • この二つの語彙は、人がしてきたこと(良い意味でも悪い意味でも)が決裁されることを意味します。ただ北イスラエルの場合は、その最初から神に聞き従わなかったことの決裁がなされるのです。

2. 主の決裁の現われ

  • 北イスラエル(エフライム)に対する主の決裁を一言で言うならば、「諸国の民のうちに、さすらい人となる」ということです(17節)。「諸国の民」とは異邦人のことであり、神がエフライムを捨てる(退ける)ことによって、彼らはさすらう身となってしまうということです。
  • 神がエフライムを拒絶されたのは「彼らが神に聞き従わなかったから」ですが、それまで神が何度も繰り返し立ち返りを求めたのに対して、彼らはずっとそれを無視し続けたからです。主の決済は後のサマリヤ陥落の後、捕囚、離散という形で実現します。彼らは異邦人の中に、散らされ、飲み込まれ、民族としてのアイデンティティを喪失してしまったのです。
  • 「主を恐れることは知識(知恵)の初めである」(箴言1:7)とあるように、私たちは主を恐れなければなりません。「主を恐れる」とは、主を怖がるということではなく、主こそ私たちの生存と防衛を保障してくれる唯一の神であることを信じて、その方を信頼することです。この方の以外にその保障を求めることを、聖書では偶像礼拝と言うのです。そしてその偶像礼拝の行き着くところは、喪失・崩壊です。それゆえ、私たちは神(主)を恐れることを学ばなければなりません。

3. 「さすらう者」-二根字נדの秘密

二根治「נד」.JPG
  • 9章17節にある「さすらい人」と訳されたヘブル語は動詞「ナーダド」の分詞形です。この動詞は二根字であり、そこからいくつかの語彙が発生します。

    (1) 「ナーダー」(נָדָא)のヒフィル(使役)形で「追い払う」の意。
    (2) 「ナーダド」(נָדַד)で「さまよう」の意。
    (3) 「ヌード」(נוּד)で「さ迷い歩く」の意。
    (4) そこから派生する名詞形の「ノード」(נוֹד)はエデンの東にあるカインが住んだ地のノド。
    (5) 関連語として「ヌーア」(נוּעַ)も「さまよう」という意。

  • 17節の「諸国の民のうちに、さすらい人となる」ということは、ノドの地に住んだカインと深い関係があります。聖書の「ノドの地」とは、神の恵みと慈愛を拒絶した人が住む放浪の地であり、さ迷うことを運命づけられた地なのです。
  • 創世記4章12節の呪われたカインは「さまよい歩くさすらい人」であり、放逐された、よるべなきさすらい人なのです。その人が住むところが「ノドの地」です。「エデン」と同様に、特定の所に存在する地ではなく、神から遠く離れた地という意味です。

画像の説明

  • 「さまよい歩くさすらい人」という表現は創世記4章12節と14節にしかありません。北イスラエルの民の運命はカインと同じ運命にあります。とはいえ、カインが主によって守りのしるしが与えられたように、エフライムの民も同様の守りが与えられていると考えることができます。そして、終わりの日に、彼らの中から「残りの者」が神に立ち返ってくるのです。

2015.4.15

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