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金銭欲の強い者に対する警告

51. 金銭欲の強い者に対する警告

【聖書箇所】 16章14節~31節

はじめに

  • 16章15節~31節までは「金の好きなパリサイ人」に対して語られたイエスの厳しい言葉が記されています。「お金が好きな人」は必ずしも「富める人」とは限りません。「貧しい人」であっても金銭欲に取り憑かれている人、お金に執着していることがあるからです。しかしここでは、はっきりと「金銭欲にとらわれているパリサイ人」と限定されています。彼らは神にも富にも仕えることができると考えていた人たちです。
画像の説明
  • ルカは極端なほどに「富んでいる者」と「貧しい者」を対比して書いています。ルカの語る「貧しい者」(「プトーコス」πτωχος)とは、社会的カテゴリーにおける集合的な語彙で、社会の中で不利益な立場に置かれている人々を意味しています。マタイは「心の(正確には、霊において)貧しい者」という言い方で、貧しさを跳躍台として開花した謙遜と神への信頼に基づく人々を取り上げているのに対し(マタイ5:3)、ルカの場合はほとんど社会的に疎外されているところの貧しい人々を取り上げ、彼らに関心を向けています。
  • さて、イエスが公生涯におけるナザレの会堂で語られた最初のことば(ルカ4章18~19節)は、「捕らわれ人」「盲人」「虐げられている人々(圧迫されてい傷ついている人々)」といった「貧しい者」の運命を逆転させる福音でした。イエスが登場した時代の社会は貧富の差が歴然とした時代でした。経済的に貧しいがゆえに、踏みつけられ、圧迫されることを余儀なくされている希望のない人々に対して、イエスは「神の恵みの年」が来たことを宣言したのです。しかし逆に、そうした「貧しい人々」を搾取し、かかわりを拒絶している者に対して、特に、マモン(金銭)の奴隷となっている者たちに対しては厳しい警告を与えられました。そんなイエスの警告を馬鹿にし、嘲笑して聞き続けていたのがパリサイ人たちでした。

1. パリサイ人の偽善を暴くイエス(15節~18節)

  • イエスが15節~18節に語ったことを整理しておきたいと思います。

    (1) 彼らは自らを正当化し、人前で正しい者としている。しかし神はすべてを見通しておられる。
    (2) 新しい時代(神の国の福音が宣べ伝えられ)が到来し、多くの者がそこへ入ろうとしている。
    (3) 律法に不忠実でる。その証拠に妻を離別して他の女と結婚をしている。それは姦淫を犯す者である。

  • 特に、(2)に関連して「律法と預言者はヨハネまでです」(16節)という意味は、律法(トーラー)によってもたらされる呪いの時代はヨハネまでだという意味です。律法(トーラー)は良いものであり、それは天地が滅びるよりも確固としたものであるが、同時にそれは呪いをもたらし、人々に恐れを植え付ける機能を持っています。当時、律法によって神に近づこうとした人々は、その律法によって人々に恐れを植え付け、彼らを支配しようとしてきました。しかし今や、新しい時代が到来し、律法がもたらす呪いから人々を解放して神の方から近づいてくれる時代が到来したのです。神と人とを隔てている律法の呪い、罪の負債を赦し、罪の重荷から解き放ってくださる神が近づてくださる「神の国の福音」が宣べ伝えられているのです。しかし律法の呪いの元に人々を置いて支配しようとしているパリサイ人はその律法に従って生きていないことをイエスは彼らに突きつけたのです。

2. ある金持ちとラザロのたとえ話

  • イエスは続いて、バリサイ人たちに対してひとつのたとえ話をしています。それは「ある金持ちと貧乏人ラザロ」の話です(19~31節)。たとえ話には必ず強調される一つのポイントがあります。そのポイントからはずれて枝葉に関心が行くと、本筋から離れてしまいます。「たとえ話」を解釈するうえでポイントが一つだということはとても重要で、注意しなければなりません。
  • 死後、二人の状況は生前とは全く逆転しています。金持ちは「ハデス」で苦しんでいますが、貧乏人であったラザロは「アブラハムのふところ」で慰めを受けています。「ハデス」と「アブラハムのふところ」の間には「大きな淵」があり、それを越えることはできません。また「ハデス」からも、「アブラハムのふところ」からも生きている人間のところにも行くことはできません。全く隔絶されています。こうした運命の分かれ道をもたらした要因はいったいどこにあったのでしょうか。そこが「金持ちと貧乏人のラザロ」の話の最も重要な点です。
  • この話は「金の好きなパリサイ人」に語られた話であることを念頭に置く必要があります。たとえ話に登場する「ある金持ち」は多くの良いものが与えられていましたが、自分の側にいる貧乏人に対しては全く無関心であったという点です。ラザロの場合はどうであったか、聖書はなにも語っていません。焦点は「ある金持ち」に当てられているからです。この話を通して、イエスは金銭を愛することの危険を警告していると信じます。
  • 金銭を愛する人は自分の全存在を神に頼るということは決してないのです。イエスのもとにしばしば永遠のいのちを得ようとして熱心に求道してくる人はみな多くの財産をもっていました。律法を守る事にも熱心でしたが、そうした彼らにイエスは「欠けたことが一つある」と言っています。その「欠けたる所」とは全存在をもって神に頼るという所です。イエスが13節に述べている「神にも仕え、また富にも仕えるということはできない」というのは真実です。それゆえ、パリサイ人のみならす、金の好きな者たちに対しても、イエスは警告しているのです。
  • 使徒パウロは愛弟子テモテに次のような手紙を送っています。

    「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。・・金持ちになりたがる人は、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(1テモテ6:6~10)

  • 「神にも仕え、また富にも仕えるということはできない」と言われたイエスの言葉は、生存と防衛の保障を神に置こうとしているか、それとも金銭(財産)に置こうとしているか、それは私たち人間の最も深いところを探られる事柄なのです

3. 付記 「私たちが死んだ後、どうなるのか」について

  • イエスの語った「ある金持ちと貧しいラザロのたとえ話」には、死んた後に行く場所についての言及があります。そのことと、イエスが十字架の上で悔い改めた強盗に対して語ったことば、すなわち「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)との関連性についてどう理解すれば良いのかということ。これについては、ヘブル的視点からの理解が役立ちます。以下を参照ください。⇒

2012.5.10


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