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過越の食事のための準備(改)

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1. 過越の食事のための準備(改)

【聖書箇所】マタイの福音書26章17~19節
ルカの福音書22章7~13節

ベレーシート

  • 「主の受難24」―神の歴史の転換点となる重要な一日の最初の1時間は、イェシュアの弟子たち(ペテロとヨハネ)がエルサレムに入って食事の用意をするところから始まります。旧約の主の例祭の規定(レビ23:5,6)では、「過越の祭り」の翌日から「種を入れないパンの祭り」をすることが命じられているにもかかわらず、イェシュアの時代には二つの祭りが同じ日になっていたようです。果たして、この時の食事が「過越の祭りの食事」であったのかどうか議論のあるところです。本来ならば、過越の祭り日の午後にほふられた子羊の肉を神殿からそれぞれの家に持ち帰って食するはずでした。ですから、最後の晩餐と言われているここでの食事も一日早くなされていることになります。例えるならば、クリスマス・イブにクリスマスを祝うようなものです。
  • 過越の祭りのある週は、イェシュアと弟子たちはベタニヤとエルサレムを往復していました。おそらく毎日の晩餐はベタニヤでなされたことと思います。しかし過越の食事はエルサレムでなされなければなりませんでした。ところが、その食事をエルサレムのどこでするのか、その準備が何もなされていないことに弟子たちは心配になり、不安を感じてイェシュアに尋ねたのです。そのやり取りが、以下の箇所に記されています。

【新改訳2017】マタイの福音書26章17~19節
17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」
19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。

【新改訳2017】ルカの福音書22章7~13節
7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、
10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。


1. イェシュアのエルサレム入り

公生涯の区分け.JPG
  • イェシュアが今回、過越の祭りでエルサレムに上られるのは、単にユダヤの祭りを祝うためではなく、ご自身の受難と贖いの死のためでした。イェシュアはこのことを何度も語られていました。イェシュアが初めてエルサレムにおけるご自分の受難と復活を予告されたのは、三年間の公生涯の最後の年です。おそらく十字架にかかる十か月ほど前(マタイ16:21)と、過越の祭りに向かう途上、つまり十字架にかかる直前のことでした(マタイ 20:18~19)。いずれもこの受難予告は弟子たちだけに示されました。
  • イェシュアはエルサレムでの受難と死について繰り返し弟子たちに語ってきましたが、残念なことに、それをまともに受けとめた弟子は一人もいませんでした。過越の祭りの二日前にもイェシュアは弟子たちに「あなたがたの知っているとおり、・・人の子は十字架につけられるために引き渡されます」とご自身の受難について語っています(マタイ26:2)。しかし、このことを最初に悟ったのは弟子たちではなく、ベタニヤのマリアだけでした。彼女はイェシュアの言う死を正しく理解し、高価な香油をイェシュアのからだに注いでイェシュアの埋葬の用意をしたのです。

2. 弟子たちの知らないところで、イェシュアは食事の段取りをしていた

  • さて、話を戻します。弟子たちはイェシュアに過越の食事をする場所について尋ねています(マタイ26:17)。なぜ、弟子たちがこのような質問をしたのでしょうか。それは、ユダヤの慣習によれば、過越の食事を用意するのはグループのリーダーであるイェシュアの責任だったからです。イェシュアは何も準備をしていなかったわけではなく、弟子たちの知らないところで、すでにその段取りをしておられました。イェシュアと家の主人との話はすでについていましたが、弟子たちが主人に会って言うことばが、マタイとルカとでは異なっています。
    イェシュアは弟子たちにこう言います。

(1) マタイの場合(マタイ26:18)

イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」

(2) ルカの場合(ルカ22:11~12)

11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」

  • 上記の(1)(2) を見ると分かるように、マタイの場合は「わたしの時が近づいた。」という表現で、「イェシュアと弟子たちの過越の食事が特別なものであること」が強調されているのに対し、ルカの場合は食事をする場所がどこであるかに焦点が当てられています。ちなみに、「わたしの時」というフレーズはヨハネの福音書においては重要な用語ですが、マタイではこの箇所だけに使われています。
画像の説明
  • 中東の中流階級の家は、普通三階建てになっていました。一階は「カタリュマ」(καταλυμα)と呼ばれ、下を示す「カタ」(κατα)と、ゆるめることを示す「リュオー」(λυω)から成り立っています。これは旅人と動物が、荷や帯や履物をゆるめる場所でした。これは、ルカの福音書2章7節の宿屋に使われていることばです。
  • 上の部屋は応接の部屋で「パンドケイオン」(πανδοχείον)と呼ばれ、すべてを意味する「パン」(παν)と、受け入れることを意味する「デコマイ」(δοχομαι)から成り立っています。これはルカの福音書10章34節で良いサマリヤ人が傷ついた旅人を宿屋(パンドケイオン)、すなわち、すべてが受け入れられる所に連れて行った箇所で使われています。そしてさらにアナガイオン・メガ(άναγαιον μεγα)と呼ばれる上の部屋がありました。「アナガイオン」(άναγαιον)とは、上を示す「アナ」(άνα)と地面を示す「ゲー」(γη)から成り立っています。そこは家の中で最も私的な部屋であり、最も良い部屋、「用意のできた」「席が整った」部屋でした(T・アーネット・ウィルソン著「キリストの最後の教え」牧草社、1999年参照)。
  • しかしこの部屋には弟子たちを迎えて足を洗うようなしもべはいませんでした。なぜいなかったのかということに関して、次のことが考えられます。それは足を洗うしもべがいなかったのではなく、すでに午後6時以降から「種なしパンの祝いの第一日」に入っていたからです。律法の規定によれば、七日間続く種なしパンの祝いの最初の日と最後の日は聖なる日として、どんな労働の仕事もしてはならないことが定められていたからです(レビ23:7~8)。
  • さて、主は「客間」(カタリュマ)をお求めになりましたが、その家の主人は二階の(上の)「席が整えられた大広間(「アナガイオン・メガ」άναγαιον μεγα)」を用意したのです。これは「大きい」部屋だけでなく、他の者たちが入れない特別な部屋でした。ですから、マタイとルカの二つの情報を合わせると、主にとっての特別な時に、特別な部屋が用意されたことを知ることができるのです。
  • 弟子たちが知らずにいたのは食事をする場所だけではありません。これから24時間後には、彼らの師であるイェシュアが殺されて死ぬという、神の歴史において最も重要な出来事が起こるのです。弟子たちがこれからどこで食事をするのかについては不安を感じていても、これからイェシュアの身に起こることについては誰一人として気づいた者はいなかったということが強調されているように思います。

3. 「水がめを運んでいる男」とはだれか

  • 「都に入ると水がめを運んでいる男に会う」とイェシュアは言われました。この記述はマタイにはなく、マルコとルカが記しています。この「水がめを運んでいる男」とは、過越の食事をする家を見つけるためのしるし的存在です。このような不思議な男(単数)の存在は聖書でここだけです。ところが、この部分をギリシア語の原文で見ると、「水がめを運んでいる一人の男があなたがたに会うでしょう」となっており、主体が「水がめを運んでいる一人の男」にあり、弟子たちはその男について行くようにというイェシュアの指示になっているのです。つまり、「弟子たちが一人の男に会う」のではなく、「一人の男があなたがたに会う」のです。つまり、「会う」という行為の主体が「一人の男」にあるのです。とすれば、この「男」の存在を無視することはできなくなります。なぜなら、単なる「目印的存在」ではなく、きわめて「象徴的存在」となってくるからです。なぜ「水がめを運んでいる男」なのでしょうか(脚注)。そこに隠されている秘密があるとすれば、その秘密とは何なのでしょうか。
  • イザヤ書12章に「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」という終末的な喜びを示唆する表現があります。ここでの「あなたがた」とは男性複数形です。「水を汲む」の「汲む」と訳された動詞は「シャーアヴ」(שָׁאַב)で、井戸から水を「汲み上げる」ことを意味します。水を「汲む」の「シャーアヴ」(שָׁאַב)の三つの文字には、神である父(אָב)を熱心に尋ね求める(שׁ)という意味が隠されています。「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」(イザヤ12:3)とは、やがて神の民が、尽きることのない泉から流れ出る救いの喜びに満たされることの預言です。しかしその救いの喜びとは、私たちが労苦して「汲む」のではなく、神の恩寵として、腹の底から湧き上がり、流れ出てくる生ける水であり、主を知ることの喜びです。この喜びに招く存在としてのメシアの象徴が、「水がめを運んでいる一人の男」の存在に隠されているのかも知れません。

ベアハリート

  • イェシュアはご自身の受難と死と復活について、弟子たちに何度も繰り返して語りました。ところが、三年半の間、イェシュアと寝食を共にしてきた弟子たちさえも理解することができなかったというこの事実は、現代の私たちにも起こり得るのではないかと思います。つまり、熱心に神に仕え、神のことを知っていると思っていても、イェシュアの弟子たちがそうであったように、まだまだ知らないことがあるのかもしれないということです。私は、神の真理に対して常にオープン・マインドでありたいと願っていますが、そのためには、自分の学んだこと、あるいは自分の理解の型紙を時には自ら疑ってみる必要があると思っています。まだ開かれていない真理に対して、あるいはまだ知らないことについて、固定観念を持たずに、常に柔軟な姿勢を持つことが求められます。それが神に対する謙遜さだと思うのです。

脚注




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