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輝かしい神の臨在の現われ

10. 輝かしい神の臨在の現われ כָּבוֹד

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はじめに               

  • 旧約聖書における重要な名詞のひとつであるキーワード「カーヴォード」(כָּבוֹד)を取り上げます。ヘブル語「カーヴォード」の頻度数は200回。「栄光」「栄華」「栄誉」「称賛」などと訳されます。ここでは、私たちは「主の輝かしい栄光を見る」ことができるということ、さらには、主にある私たちを通して主の栄光が現わされるということを考えてみたいと思います。

1. 歴史の中に現わされた主の栄光(シャハイナ・グローリー)

  • 「栄光」(カーヴォード)とは、「目に見えない神の輝かしい臨在」のことです。神はイスラエルの民の歴史において、しばしばご自身の栄光を現わされました。
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(1) 特定の場所における主の栄光の現われ

  • 主の栄光が現わされる時には、不思議な、超自然的な現象を伴いました。たとえば、モーセがシナイ山のふもとで「燃えているのに燃え尽きない柴」の光景を目にしました。モーセはそこへ近づくと、その燃える柴から声がしました。「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出3:5)と。そしてモーセをエジプトにいる神の民を連れ出しなさいと召し出したのです。そこでは「栄光」ということばは出てきませんが、明らかに、特別な臨在の栄光(シャハイナ・グロー)が現わされたのです。
  • モーセがエジプトから神の民を連れ出し、荒野を旅したとき、民はパンのことでつぶやきました。その民のつぶやきに対して主は「わたしがあなだかたの神であることを知るようになる。明日の朝には主の栄光を見ると言われて、翌朝、人々は不思議な食べ物で満ち足りたのです。「これはなに」と言ったので、そのパンは「マナ」と呼ばれました。
  • 主の栄光は神の民の食べ物の必要を満たしただけでなく、会見の天幕においても主の栄光を現わされました。また、荒野での旅において、昼は雲の柱、夜は人の柱となって民を導かれました。
  • 時は流れて、ソロモン時代には幕屋ではなく、立派な主の宮(神殿)が建てられますが、祭司たちが主を賛美しているときに、主の栄光がその宮を満たしたため、その圧倒的な臨在のために立っていることができなかったと聖書は記しています。主を礼拝するところ、主を賛美するところに、主は圧倒的な臨在をもたらしたのです。人々は神御自身を見たわけではありませんが、神から出るその輝かしい臨在、すなわち、栄光を目にしたのです。

(2)自然界における主の栄光の現われー「雷鳴のとどろき、地震」など

  • 戦いにおいて、しばしば神は雷鳴をとどろかせ、雨を降られ、川を氾濫させて、敵の戦車を使い物にできないようにされました。自然界における神の栄光の現われは「レバノンの杉の木を引き裂き、大森林をは裸にする」とも表現されています(詩篇29:5)。

(3) 特定の人における主の栄光の現われ

A. イサクの場合(創世記26章) 

飢饉が襲った時、主はイサクに対して「あなたはこの地(ゲラル)に滞在しなさい。そうすればわたしはあなたを祝福しよう」と約束され、イサクはその地にとどまりました。父アブラハムは飢饉のときに主のことばもなく、エジプトに行ってしまいましたが、イサクはとどまりました。そしてゲラルの地に種を蒔いたところ、百倍の収穫を得たのでした。さらに羊や牛の群れが増えて、多くのしもべを所有するようになりました。それだけに、その祝福に対する反動ともいうべき妬みや嫌がらせといったものが起こることは当然です。26章では、ゲラルの人々の妬みと嫌がらせに対してイサクがどう対処したかを記しており、そこから学ぶべきものがあります。

14, 15, 17節には、妬みによる具体的な嫌がらせとして、いのちの次に重要な「井戸」のすべてが土で塞がれるということが起こりました。そしてその地から出ていくようにと迫ったのでした。そして少し移動して、かつてアブラハムが掘っていた井戸で、これもアブラハムの死後、ペリシテ人によって塞がれていましたが、イサクはそれを再び掘り返しました。するとゲラルの羊飼いたちは、その井戸は自分たちのものだと主張したためにイサクの羊飼いたちの間に言い争いが起こりました。仕方なく、イサクはさらに移動して、もうひとつ別の井戸を掘りました。そこからさらにイサクはべエル・シェバに行き、そこでも新たな井戸を掘りました。

イエス・キリストは「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ5:5)と語りましたが、まさにイサクは柔和な者の典型的なモデルです。争うことをせず、人から嫌がらせを受けてもそれに対抗することをしませんでした。一見、損な道を選びとっているように見えますかが、主はそんなイサクを祝福されたのです。このイサクの柔和さは主に対する信頼から来ています。このような者に対抗することは決して得にはなりません。そのことを悟ったアビメレクはイサクのもとを訪れて平和の契約を結びたいと申し出ます。なぜなら、「あなたは主に祝福されています」と言ったように、イサクと争いごとを起こしても何の得にもならないことを悟ったからだけではなく、神がイサクとともにいることを恐れたのです。これが、イサクを通して現わされた主の栄光です。その場合の主の栄光は、イサクになされた祝福によって現われ、輝かされたのです。


B. オベデ・エドムの場合(Ⅱサムエル6章)

ダビデはエルサレムを全イスラエルの中心地とするために、各部族の長老たちとの合議の上で、神の箱を「ダヒでの町」へ携え上ろうとします。契約の箱をダビデがエルサレムの天幕に運び移すまで実に20年間、キルヤテ・エアリムのアビナダブの家に安置され、その息子エルアザルがその箱を守っていた。

ダビデはイスラエルの過去の歴史に全く関わりのなかったエルサレムを宗教的、政治的な中心地とし、そこに神の「契約の箱」を移転しようと考えた。それによって、神の臨在と力を再びイスラエルにもたらすためであった。しかもそのことを独断ではなく、合意の上で決行することによって、国家的に霊的一致をもたらす狙いがあったと考えられる。しかしながら、意図と目的は良かったが、その方法がまずかったのです。。

新車の荷車に契約の箱を載せて、それを牛がそれを引っ張っていったのです。途中でどういうわけか、荷車が傾き、契約の箱が落っこちそうになったのです。そのときウザという人が傍にいて、契約の箱が落ちないように支えたのです。次の瞬間、ウザは神の臨在に打たれて死んでしまったのです。

「助けてあげようしたのに、神様が怒って罰を当てた。なんと理不尽な」と私たちは思いますが、契約の箱は神の臨在そのものであり、どのようなことが起こったとしても、たとえその時ひっくり返ったとしても、それは聖なるものであって、人間が触ることは絶対にできない掟があったのです。ところが、ウザはそのことを知らずに契約の箱にさわってしまったのです。そのことによって死んだのです。

ではどうやって運ぶかといいますと、その契約の箱には運ぶための棒を通す輪っこがついていて、おみこしのようにして運ぶのです。この方法しか許されていませんでした。しかも、運ぶことができるのはレビ人であることが定められていました。ダビデは恐れて、契約の箱を運ぶのを中断し、その近くに住んでいたオベテ・エドムという人の家にしばらく箱を安置してもらったのです。

すると、そのオベテ・エドムの家にすばらしいことがその日から起こり始めたのです。神の祝福が彼の上に、そして彼の家族の上に注がれ始めました。その祝福の具体的な内容については聖書は記していませんが、確かなことは、周囲の人にははっきりとわかったのです。「あの契約の箱を預かったその日から、オペデ・エドムの家は変わった」とだれもが認めるようになったのです。それもそのはず、そこには神の臨在があったからです。それほどに、主の臨在は人々に祝福を与えるものなのです。


2. 神の御子イエスにおける神の栄光

  • さて、ここから新約における神の栄光について見ていきたいと思います。栄光というヘブル語は「カーヴォード」」כָּבוֹדですが、それが新約では「ドクサ」δοξαと訳されます。「ドクサ」δοξαの使用頻度数は新約で166回です。その中でも重要なのは、「人の子」というイエスに現わされた栄光です。

へブル書1章3節では
「御子は神の栄光の輝き」、
「御子は神の栄光の輝き、また 神の本質の完全な現われ・・・」 (同義的並行法)

ヨハネの福音書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(「幕屋を張った」という意味)。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」
具体的に、御子イエスの栄光をどのように見たのか、その記録こそがヨハネの福音書と言えます。

  • ここで「カーヴォード」のもう一つの意味について触れておきたいと思います。それは「カーヴォード」には「重い」という意味があるということです。この世界における最も重い事柄、それを「栄光」という意味です。ですから、「私たちはこの方の栄光を見た」という意味は、「御子のうちに目に見えない神の輝かしい臨在を見た」という意味と同時に、この世界、この宇宙において、あるいは私たちにおいて「最も重い事柄を啓示してくださった方として見た」とも言えるのです。

ヨハネの福音書2章11節 に「イエスはこのこと(水をぶどう酒に変えられたこと)を最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い。ご自分の栄光を現わされた。」とあります。

この他に、ヨハネの福音書には6つのしるしが記されていますが、「最初のしるし」は他の6つのしるしのすべてを包含するものとして位置づけることができます。それほどに「水をぶどう酒に変える奇蹟」は重い事柄です。その重い事柄に私たちがかかわるためには、母マリヤが言ったように「あの方が言われることは、なんでもそのとおりにする」ということが条件です。イエスも「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と言っています(ヨハネ11:40)。つまり、神の栄光とは、イエスとのかかわりによって(信仰によって)、水がぶどう酒に変わるようなことがあなたや私の人生に起こるということです。

ぶどう酒とは、神と人との交わりにおいて喜びをもたらす神の恵みの象徴です。ぶどう酒がなくなるということは、神と人との交わりにおいて「喜びが枯渇する」こと。旧約の時代にユダヤ人たちが神と人との交わりを維持するために、きよめのしきたりとか、断食とか、施しとかさまざまな業を行なってきました。しかしそこには喜びはありませんでした。単なる義務です。~しなければならないからするという「頑張りの世界」でした。ですから、そこには「喜び」がなかったのです。喜びが枯渇していたのです。そこには喜びを象徴するぶどう酒はありませんでした。しかし、人間の頑張りによる業が取り壊され、神と人との交わりが回復し、芳醇なぶどう酒に象徴されるような、この上もなく、最高の味わいとして、良い香りとして、味わうことのできるときが来たのです。その味わいを楽しむことができる時が実現したのです。

私たちはイエスの言われることやなされたことを信じ、深くかかわることを通して、喜びを象徴するぶどう酒を味わうことができます。これがヨハネの言う「栄光」、つまり、「重い事柄」です。


3. なにをするにも、ただ、神の栄光を現わすようにしなさい

  • 新約聖書で「栄光」ということばを多く使った(77/166)使徒パウロは、コリント人への手紙第一10章31節の後半で、「なにをするにも、ただ、神の栄光を現わすようにしなさい。」と述べています。これはどういう意味でしょうか。どのような生き方が目指されているのでしょうか。この聖句をエリック・ピーターソンという人はこのように訳しています。「ただ」というところを、「心を込めて熱心に(heartily)、しかも、喜んで、惜しげもなく、大胆に、自発的に、気前よく(freely)、すべてのことをして」と訳しています。「そのようにして、神の栄光が現わされるようにしなさい」と訳しているのです。
  • クラッシク音楽の中で有名なヨハン・セバスチアン・バッハ、彼はドイツの教会のオルガニストでした。彼は毎週の礼拝のために、その日の礼拝の聖書箇所にふさわしい曲を作曲しました。牧師がひとつのメッセージを準備して会衆に語るように、バッハも音楽という形で毎週、音楽を作曲したのです。前奏曲にはじまり、讃美歌の伴奏、聖歌隊によるカンタータなど。彼の作曲した楽譜には、必ず、「神の栄光のために」という略語が記されています。バッハの音楽の流れの中に仕組まれている彼にしか分からない音楽的技法もだれのためでもない、神に対する信仰と喜びのゆえに、与えられた機会を最大限に、しかも心をこめて 熱心に、しかもそのために時間を惜しげもなく注ぎ、自発的に、喜びをもって作曲したのです。それが彼にとっての神への献身、神へのささげものでした。
  • そんな大それたことができなくても、私たちの身体は神によって買い取られたものです。すでに私の身体の所有者は神ご自身です。しかし使用権が私たちに与えられています。私たちは聖霊の宮です。旧約時代には、神の臨在は幕屋とか、神殿といった特定の場所にありましたが、新約の時代には神の臨在は私たちの身体にあるのです。
  • ただし、私たちが自分のからだをもって神の栄光を現わすという場合に、私の身体が病気であってはならないとか、健全でなければならないということではありません。病弱であっても、またいろいろな身体のハンディーをもっていたとしても、私たちはこの身体をもって神の栄光を現わすことができるのです。星野富弘さんはその良い例です。彼は体育の教師でした。宙返りをしたときに、頭から落ちて下半身が動かなくなってしまったのです。そのことを通して、キリストに出会い、クリスチャンとなりますが、一見、身体は不自由に見えるのですが、心は反対に空を飛ぶ鳥のように、自由に生きることもできるのです。
  • 神は水をぶどう酒に変えられたように、苦しみや涙を喜びに変えてくださる方です。苦手だったことを得意なことへと変えてくださる方です。動けないことが、動ける人よりも神を知るうえで良いこともあるのです。もはや私たちの身体は私たちのものではなく、聖霊の住まわれる宮です。なにをするにしても、そのことを忘れてはならないのです。
  • 最近、「禅」という映画(DVD)を観ました。禅宗の開祖は道元という人ですが、禅宗では修行としてひたすら座禅をします。そのときに足を組み、両手はお腹の当たりで小さな輪を描きます。この輪の中に実は仏がいると信じているのです。わかりやすい形ですね。ひとりひとり、どんな人にも必ず仏がいるのですが、この世のいろいろな雑念や己の欲望のためにその仏の存在に気づかないと言います。ですから、ひたすら座禅をして、自らのうちにいる仏と向かい合うのです。
  • キリストを信じたクリスチャンにも聖霊と言う方が宿っておられます。この聖霊は神の栄光を現わす術を知っておられます。祈りの生活を通して、その方の静かな声に耳を傾けるとき、私たちが神の栄光を現わす存在となっていくのです。私たちの存在を永遠の所有として引きうけてくださった神の栄光を現わすことが、神の子どもとしての生きる目的だからです。ですから、「食べるにも、飲むにも」-そうした日常的な事柄の中にも、またすべてのことにおいても、「ただ」―「心を込めて熱心に(heartily)、しかも、喜んで、惜しげもなく、大胆に、自発的に、気前よく(freely)、すべてのことを神の栄光が現わされるように歩ませてくださろうと寄り添ってくださっているのです。この聖霊が、私たちに内住して、味気ない水を芳醇なぶどう酒に変わるように導いてくださるのです。私たちのうちにおられる聖霊様が私たちをして、「すべてのことを、ただ、神の栄光を現わす」ことができるように助け手となってくださるなら、今あらためて、その方の声や導きをより意識して歩むべきと信じます。

2012.8.26


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