****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

貧しい者における神のトーヴ

8. 第七瞑想  貧しい者における神のトーヴ

【聖書箇所】マタイの福音書20章1~16節

はじめに

  • これまで旧約からのみ神の「トーヴ」を見てきましたが、今回は新約から「貧しい者における神のトーヴ」を味わってみたいと思います。新約では「トーヴ」というヘブル語ではなく「アガソス」というギリシャ語になります。しかし「トーヴ」が「アガソス」という言葉に置き換えられたとしても神の本質はかわりません。神はどこまでも良い方であり、良いことを私たちにしてくださる方なのです。主イエスはそこへ私たちを招こうとしておられます。
  • マタイの福音書20章1~16節のテキストの中のどこに神のアガソスということばがあるかと言いますと、15節にそれがあります。「わたしが気前がいい」という部分がそれです。「わたしは気前がいい」という部分が「エゴー・アガソス・エイミー」ἐγὼ ἀγαθός εἰµι 英語では I am good (あるいは、generousとも訳されます。寛容な、気前のよい、太っ腹、気が大きい)という意味です。ヘブル語に訳されると「トーヴ、アーニー」(טוֹב אָנִי)となります。

1. 「ぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かける主人のたとえ」のコンテキスト

  • このたとえ話のコンテキストを見てみましょう。このたとえ話は薄いパンで挟まれたサンドイッチのようです。というのも、19章の終わりの30節に「先の者があとになり、あとのものが先になることが多いのです。」とあり、20章16節に「あとの者が先になり、先の者があとになることが多いのです。」、順序は逆になっていますが、言わんとしていることは同じです。ですから、この「ぶどう園の主人」のたとえは前の話とつながりがあると言えます。

(1) マタイ19章16節~22節

  • ここには永遠のいのちを得たいという熱心に求道している「富める青年(多くの財産をもっている青年)」の話があります。この話はマルコにもルカにも平行記事があります。みな大変な金持ちなのですが、マタイは「青年」としているところを、マルコの場合は「ひとりの人」となっており、ルカの場合では「ある役人」としています。ということは、イエスのもとに訪ねて来た主体は、青年であったのか、ひとりの人であったのか、ある役人であったのかは重要なことではないということです。むしろ重要なことは、この記事に共通している事柄です。共通している事柄とは、以下の四つです。

    ① 多くの財産をもっていること。
    ② 神の戒めをみな守っていること。
    ③ しかし、ただ一つだけ欠けていることがあるということ。
    ④ その一つの欠けを満たすためのイエスの要求を聞いたあと、悲しんでイエスから去って行ったということ。

(2)マタイ19章23節~30節

  • ここでの話は、イエスと金持ちの青年のやり取りを聞いていた弟子たちに、イエスが「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのは難しいことです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われたのです。つまり、金持ちが天の御国に入ることはほとんど不可能、絶望的だということを言おうとしたのです。そのことを聞いた弟子たちは非常に驚きました。「それではだれが救われることができるのでしょう」と弟子たちは素朴な質問をします。その質問にイエスは答えて、「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。」―そのやりとりの流れで、弟子の筆頭のペテロが「ご覧くだい。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。(つきましては)私たちは何がいただけるでしょうか。」
  • ペンテコステの経験をしていないときのペテロというのは、どこかはやとちりで、かみあっていない面がおうおうにしてあることを念頭においてください。つい眼の前で、たいへんな金持ちが自分の財産を貧しい人に与えることができずにイエスのもとを去っていったのです。それに比べると、自分たちはなにもかも捨てて、あなたに従ってきた、と自慢げに語っているのです。そしてそんな私たちになにがいただけるのでしょうか、どんな報奨がいただけるのでしょうか、とイエスに尋ねているのです。
  • 確かに、ペテロの言っていることは間違いではありません。彼らは漁師の仕事になくてならない網を捨て、舟を捨て、仕事を捨て、しかも自分の父も残してイエスに従ったのです。なぜでしょうか。イエスが彼らに「わたしに従って来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)と言われたからです。彼らは「人間をとる漁師にしてあげようという」イエスのその招きのことばの真意をどれほど理解したのかはわかりませんが、イエスのことばに期待して、夢見て、信頼して従ったのです。このとき、不思議な神の特別な引き寄せがあったのだと思います。後にイエスが「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることは出来ません。」(ヨハネ6:44)と述べているからです。
  • このように引き寄せられて、すべての持ち物よりも、神とのかかわり、あるいはイエスとのかかわりを優先した者に対しては、やがて人の子が栄光の座につく時、大いなる権威が与えられること、また捨てた幾倍もの報いを受けることができ、永遠のいのちをも受け継ぐことかできることをイエスは語っています。しかし、だれもがそう簡単にできることではなく、イエスの名のために、つまりイエスとのかかわりを何よりも優先できた者に対してだということです。
  • 29節でイエスが語っていることー「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」は、ヘブル的表現が使われていて、あることを強調するために、他を完全否定する表現が使われています。ですから、文字通り、家も兄弟も、姉妹も父も母も子も、また財産全部捨てなければならないという意味ではありません。あくまでも優先度を強調する表現であることを忘れてはなりません。特に、金持ちはこの優先度をどうしても財産に置いてしまうという点で難しいとしているのがイエスの言わんとしていることなのです。したがって、大切な律法をすべて守っているとする金持ちの青年に「欠けているただひとつのこと」とは、「神にのみ信頼するという貧しさ」なのです。このことは次の20章のたとえ話しの後で再び取り上げることにします。

2. 20章の「ぶどう園の主人のたとえ」

  • このような話の流れの中で20章のたとえ話が語られているのです。イエスがこのたとえ話を語った対象はなにもかも捨ててイエスに従った弟子たちだったのです。前置きが長くなりましたが、ここから20章の「ぶどう園の主人のたとえ」そのものを見ていきましょう。
  • このたとえ話しの驚きの部分はどこにあるかと言うと、賃金の払い方にあります。おかしな払い方です。朝早くから働いた人と、夕方から働いてわずか1時間しか働かなかった人と全く同額の1デナリが支払われたからです。1デナリというのは1家族が1日を生きるのに必要な額だったとある注解書には記されております。しかし、朝から働いた者は当然、夕方から働いた者と同額では納得がいきません。そこで、主人に文句を言ったわけです。

12『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

  • もし、社会の中でこのようなことをしたら、大変な問題になります。これはあまでも神の国、天の御国の主人である神の善を表わす話なのです。ですから、この世の基準とか、原則とは異なるというのは言うまでもありません。契約という点から見れば全く問題はありませんが、納得はできません。しかし実はそこがこのたとえの一番言いたいところなのです。それは神の賜物の無償性ということです。つまり、ただということです。夕方から働いた人はなにも怠けていただけではありません。夕方まで仕事にありつけなかっただけなのです。主人はその者たちに一日暮らすのに必要な額を与えたのです。その人たちはどんな喜んでことでしょう。言ってみれば、朝から夕方まで働けなかった労働の分が、ただで、無償でもらうことができたのです。これは神の主権的恩寵を表わしています。
  • この世は「働かざる者、食うべからず」の世界です。しかしマタイ20章に登場するぶどう園の主人は、職にありつけなかった者に対して、働きの分量に応じてではなく、その必要に応じて与えたのです。この主人の気前良さは、ある意味でつまずきを与えます。特に、一生懸命働いた者たちはこの主人につまずきます。
  • 夕方から働いた者は自分が働いた分しかもらえないと思っています。その額が一日に必要とする分には届かなくても、仕方ないと思っています。朝から、あるいは昼から働いた者たちよりも貧しいのです。ところが、思いがけない、思ってもみなかったも恩恵にあずかりました。
  • 当時の宗教的制度を仕切っていた人たちにとっては、こうした福音のメッセージと、力の行使は脅威と感じられました。社会全体をひっくりかえすような破壊的な福音だったのです。ですから、なぜ当時のパリサイ人や律法学者たちがイエスに対して敵対行為に出たのかといえば、その理由は、当時の社会に大変深刻な問題をもたらすからだったのです。単なる悪意によるものではなかったのです。自分たちの宗教制度のシステムを根底からひっくり返してしまうような「福音」だったからです。
  • 夕方から働いた者たちは「貧しい者」たちの代表であり、たとえです。この「貧しい者」たちに対する神の対応はモーセの語った律法の中に扱われています。モーセの律法の中の申命記15章には神の福祉理念が記されていますが、それによれば、隣人に対する負債を七年毎に免除し、取り立ててはならないことが命じられています。そのことによって神の民たちの中に貧しい者がいなくなるはずでした。しかしイスラエルの歴史(特に、北王国)をみるとそれが守られることはなかったようです。異教徒との同盟関係において繁栄していくプロセスの中で社会の貧富の格差が次第に大きくなり、詩109篇に描かれているように、「貧しい者たち」が踏みつけられ、見捨てられ、さらに貧しさの度合いがよりひどくなっていきました。北イスラエルに対して預言したアモスはそのことで指導者たちを叱責しています(アモス2:7, 5:12, 8:4参照)。しかしこの声に立ち返る指導者はなく、結局のところ、北王国はアッシリアに滅ぼされてしまったのです。

3. 「貧しい者」の霊性の流れ

  • 詩篇には「貧しい」という語彙が多く見られます。一つの例として、詩篇109篇から「貧しい者」に対する主のかかわりについて見てみましょう。

    22節
    私は悩み(「アーニー」עָנִי)、そして貧しく(「エヴヨーン」)、私の心は、私のうちで傷ついています。

    31節
    主は貧しい(「エヴヨーン」אֶבְיוֹן)者の右に立ち、死を宣告する者たちから、彼を救われるからです。

  • 「エヴヨーン」(אֶבְיוֹן)は旧約で61回、そのうち詩篇では23回、いわば詩篇の特愛用語です。「アーニー」(עַנִי)は旧約で75回、そのうち詩篇では31回。これも詩篇の特愛用語です。
  • 「貧しい」と訳された形容詞「エヴヨーン」אֶבְיוֹן('ebyon)は、もう一つの形容詞「アーニー」עָנִיとワンセット(35:10/37:14/40:17/70:5/86:1/140:12参照)でしばしば用いられます。詩109篇では22節と31節にそれが見られます。22節には「私は悩みעָנִי(`ani)、そして貧しくאֶבְיוֹן(’ebyon)、私の心は、私のうちで傷ついています。」とあります。前者のアーニーעָנִיは、英語(NIV)ではpoorと訳され、後者のエヴヨーンאֶבְיוֹןはneedyと訳されています。いずれも貧しさを表わすヘブル語ですが、後者の方は極貧を表しています。このように二つの言葉が使われることで「貧しさ」がより強調されています。
  • この詩篇で注目したい点は、
    (1) 作者自身が「悩む者、貧しい者」だと自覚していること、
    (2) 圧迫の現実から助け出してくれるように神に嘆願していること、
    (3) その結果、主はその貧しい者の祈りを聞いてくださったことの感謝と賛美がつづられていることです。
  • イエスは山上の説教の冒頭で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。」と言われました。またナザレの会堂で聖書を朗読しようとして立たれた時、イエスはイザヤ書の中からある箇所を開かれました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。・・主の恵みの年を告げ知らせるために。」という聖句を選ばれました。ここにある「貧しい」とはギリシア語で「プトーコス」πτωχοςという言葉ですが、もともと「縮こまる、うずくまる」という「プトーッソー」πτωσσωから派生した形容詞です。普通の貧乏ではなく、差し迫った窮乏を意味します。この「プトーコス」πτωχοςの背後には、へブル語の二つの形容詞עָנִי(アーニー)とאֶבְיוֹן(エヴヨーン)があるのです。
  • 私たちが自分を貧しい者であると知ることは容易ではありません。「貧しい心」とは自分が無力な者であることを徹底的に悟り、神の恵みの豊かさという富を無償で与えられることを意味するからです。

4. イエスはハンナ、マリヤの霊性の流れの中で育てられた

  • イエスはガリラヤ地方の田舎町ナザレで育った。その頃のナザレは人口1500人~2000人の村であり、その地方はある種の軽蔑をこめて、「ナザレから何かよいものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言われるような場所であった。そのような町にイエスはなんと30年間も過ごされました。
  • イエスはナザレにおいて年を重ね、身体的のみならず、知恵においても、知識においても成長して、少しずつイスラエルの宗教的伝統を身につけられました。そして律法、預言書、詩篇にも親しまれました。
  • 福音記者のルカは、イエスの母マリヤの「マニフィカート」(マリヤの賛歌)の中に、ナザレの家庭に支配していた霊性を伝えています。それは、かつて、サムエルの母ハンナが歌ったもので、マリヤにもしっかりと受け継がれていることが分かります。その霊性とは「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、‥‥彼らに栄光の位を継がせる」(詩篇113:5~8)ということばに集約されます。そのような霊性の中でイエスは過ごされたと言えます。そして30歳になって公生涯に入られてからイエスが語った福音とは、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」(ルカ6:20) というものでした。マタイの福音書では「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(5:2)となっています。
画像の説明
  • 「貧しい者」とは、最初は物質的な貧しさの状態にある人のことを意味していましたが、神の民イスラエルがバビロン捕囚を経験してからは、単なる経済的貧困としての貧しさから発展して、捕らわれ人としての悲惨な状態から神の方に向き直り、謙遜と信頼から成り立つ霊的な貧しさへと開花して行きました。詩篇(そもそも詩篇そのものが捕囚の地において開花した信仰の歌です)には、貧しさを表わす「エヴヨーン」と「アーニー」という「貧しさ」を表わす語彙が特愛用語として多く使われていますが、詩篇の中に表現されている「貧しい者」は「聖書的人間の一つの完成した型」を表しています。かつては呪いとして受けとめられてきた「貧しさ」が、捕囚時代を通して(それは悩みに満ちてはいましたが)、ある意味で有意義な霊的益をもたらしました。それは自分たちの貧しさを、神に対する無条件の信頼の領域に達するための、いわば跳躍台としたからです。
    画像の説明
  • イエスはサムエルを生み出したハンナをはじめとする神の預言者たちの霊性の流れ、そして母マリヤも受け継いだ霊性の流れの中に育ったと言えます。その霊性とは「貧しき者の霊性」です。イエスが語られた「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」ということばはそのような霊性の流れの中で理解されなければなりません。
  • 詩篇113篇に「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、‥‥・彼らに栄光の位を継がせる」とありますが、イエスはこのような「貧しき者の霊性」の流れの中で、無学な者たちをご自分の弟子として選ばれ、また社会の中で疎外されている人々―多くの病人を癒され、取税人や姦淫を犯した女性たちの罪を赦し、負債を免除し、しかもそのような者と共に食事をされたのです。これはいわば当時、確立されていた宗教的社会構造システムの中では絶対に考えられないスキャンダルな行為だったのです。

最後に

  • 「貧しい者の霊性」について、以下のようにまとめることができます。

    (1) 神の無比性(至高性)をたたえる
    (2) 神の無償性にあずかる特権
    (3) 神への謙遜とゆるぎない信頼

  • マタイ20章のたとえでは、神のトーヴは特に貧しい者たちに対する神の賜物の無償性という形で表わされているのです。それゆえ自分の貧しさを知ることは祝福につながります。「貧しさ」(プトーコス)は決して神の呪いではなく、むしろ、神のすべての恩寵を受け取ることのできる資格なのです。これこそが永遠のいのちを得るためにイエスのもとに来た金持ちの青年に欠けていた「ただひとつのこと」だったのです。律法をすべて守っているとする金持ちの青年に「欠けているただひとつのこと」とは、「自分の生存と防衛の保障を神にのみ信頼するという貧しさ」でした。

2012.5.6


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