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謙遜への招き(ピリピ書2章15~16節)

9. 謙遜への招き(ピリピ書2章14~16節)

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章14~16節
14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。


1. 「自分の救いを達成すること」とは

●「自分の救いを達成する」ためには従順であることが不可欠ですが、その具体的な目標は以下のことです。

(1) 非難されるところのない純真な者となること
(2) 曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなること
(3) いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くこと(φαίνεσθε ὡς φωστῆρες ἐν κόσμῳ)

●一見、三つのことが並列に並んでいるように見えますが、前の二つは後の「世の光として輝くこと」に集約されているのです。肉の支配する曲った邪悪な世代のただ中にあって、まさに世(「コスモス」κόσμος)で「光」(「フォステール」φωστῆρ)として「輝く(照らす)」(「ファイノー」φαίνω)ことなのです。「光」は新約聖書で2回しかない語彙で、神の栄光の「輝き」を言います。このイメージをしっかりと持つことです。

●神が私は私は私たちに求めておられることはとても崇高です。私たちの力では到底、無理なことのように思えますが、これは神が私たちのうちになしたいと願っておられることなのです。神が私たちをこの世の基が置かれる前から選んだのは、それを神が私たちのうちに実現したいことだからなのです。しかもこれは個人的なことではなく、共同体的なことなのです。

●私にはできないと思っているのは、私がそれをしようと思っているからです。ですから、私たちにとって必要なことは、神を信じる信仰だけなのです。そのことを別な言葉でいうと、「恐れおののいて」ということです。「恐れおののいて」とはどういうことでしょうか。この表現はパウロが好んで用いるフレーズです。びくびくすることではありません。むしろ神の前にへりくだること、謙遜を表す表現なのです。

●神があなたのうちになそうとするご計画があるということを信じて、そうなるように努めること、これが「自分の救いを達成する」ことなのです。そしてその目標は「世の光として輝くこと」です。「そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます」とあります。「キリストの日」とは、キリストに再び会うとき、すなわち、キリストが空中再臨されるとき(携挙されるとき)です。

2019.7.24

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