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謙遜への招き(ピリピ書2章12~13節)

8. 謙遜への招き(ピリピ書2章12~13節)

ピリピ人への手紙2章12~13節

【新改訳改訂第3版】
12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。
13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
14すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

【新共同訳】
12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。


ベレーシート

  • ピリピ人への手紙2章1~18節の中で、今回、私個人に強く語りかけられた事柄を以下にまとめてみました。特に、私への主の語りかけとしては、2章12節にある「おそれおののいて自分の救いを達成してください」というみことばです。それと関連して、13, 14節の「神は、みこころのままに、あなたがたのうち働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」というみことばが付随していると考えられます。しばしば13節のみことばは、文脈からはずされて一人歩きをし、牧師のヴィジョンや教会行政の方針を支えるみことばとして利用されることがありますが、第一義的には、みことばは常にコンテキストの中で理解される必要があります。ここでの12節と13節のみことばはきわめて密接なかかわりをもっていることに、私は気づかされました。
  • この箇所を、「霊性の回復セミナー」で提言している「3D瞑想法」で味わってみたいと思います。3Dとは三つのデメンションを表わし、縦、横、奥行きの次元です。すでに2章1~18節の中で、12と13節を瞑想の聖句として直観的に選び出したことが縦の次元です。次に、この箇所を文脈の流れの中で味わうことが横の次元です。そして特に12~13節を重点的に原語(ギリシア語)で調べてみることが奥行きの次元です。実際には、これらの次元が同時進行する場合が多々あります。

1. 縦の次元と奥行きの次元

  • 2章12節と13節の箇所について、新改訳、新共同訳以外の翻訳も参照してみます。

    【口語訳】
    わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。

    【エマオ訳】
    12それゆえ、私の愛する者たちよ。あなたがたは、常に従順であったように、私が(あなたがたと共に)いる時だけでなく、むしろ、いない今は一層のこと、恐れとおののきをもって、あなたがた自身の救い(の実)を生み出し続けなさい。

    【柳生訳】
    12だから、愛する兄弟たちよ、あなたがたもキリストのこの従順に倣う者となり、わたしが一緒にいたときつねにそうであったように、離れている今はなおいっそう従順になって、畏れおののきつつ自分の救いを全うするように努めなければならない。

  • 12節の「自分の救いの達成に努めなさい」のギリシア語原文は、「自分自身たちの救いを (ゴールまで) 達成し続ける」という意味です。「達成する」と訳された原語の「カテルガゾマイ」(κατεργάζομαι)の現在形・命令・中態で、「自ら・・を達成し続けよ」という意味合いです。つまり、生涯の課題として位置づけられるべき事柄が述べられているということです。とすれば、私たちはそれを正しく自覚し、キリスト者として自らそれに取り組むことが、自分の召しということになります。
  • ちなみに、パウロの書簡における文章は、主動詞の他に、分詞によるさまざまの文節がくっ付いて構成されていることが多いのが特徴です。ですから、主動詞が何かをチェックしておくことは大いに役立ちます。ただしそのためにはギリシア語の文法的情報を得ることが必要です。昨今、原語の文法的情報を記したインターリニアが出版され、インターネットでもその情報は簡単に得られる時代となっていますから、原語の基本的な文法を学ぶならば、いつでも参照し、確認できる便利な時代となっています。

2. 横の次元

  • パウロは、常にキリストとのかかわりの中に自分を置いていますが、ピリピ書の各章には以下のように、それぞれ強調されているパウロの姿を見ることができます。

    1章では、自分の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを唯一の願いとしているパウロの姿
    2章では、キリストの謙遜(従順さ)にならうことが、自分の救いの達成することだと理解しているパウロの姿
    3章では、キリストを知るという一事を常に追求しているパウロの姿
    4章では、キリストにあって、あらゆる境遇に満ち足りているパウロの姿

  • ピリピ2章にのみ注目すると、「自分の救いを達成すること」と「従順であること」が、密接な関係にあることが分かります。ところで、「従順であったように」とは、誰に対して従順であるのかと言えば、それはイエス・キリストに対してです。御子も御父に対してその生涯の最後まで従順であられたように、その御子の従順に見倣って、なおいっそう従順であることが、自分の救いを達成する上で重要だということです。しかもそうした思いや願いを、主にある者たちのうちに起こさせて、神ご自身が力を与えて達成させることができるということが13節で語られているように思います。要するに鍵は、「従順である」ことにおいて成長していく必要があります。
  • しかも、これを自分自身の召命として受け取るようにとパウロは勧めているように思います。主に対して従順であるためには、私たちの肉の性質に勝利しなればなりませんが、その力も神から与えられるのだということを信じて歩まなければなりません。使徒パウロはこの「従順の召し」を、エペソの教会の長老たちへの訣別説教の中で次のように表現しています。
  • それは「謙遜の限りを尽くして・・主に仕えた」(使徒20:19)という表現です。原文では「仕えた」という動詞が現在形の分詞になっており、前節(18節)の「過ごした」(アオリスト・中態)にかかっていますので、ここは「謙遜の限りを尽くして、主に仕えながら、あなたがたと共に(意識的に)過ごした」という意味です。パウロはエペソの教会を三年余り、手塩にかけて建て上げるうえでかなり意識的に「謙遜の限りを尽くして」主に仕えたことが理解できます。「謙遜の限りを尽くして、主に仕える」というこの姿勢は、使徒パウロの生涯を端的に特徴づけるものです。しかしその背景には、「謙遜の限りを尽くして、神に仕え」た真のモデルがいます。それが主イエス・キリストです。パウロの生き方はまさに主イエス・キリストの従順に完全に倣うものであったと言えます。
  • ここでいう「謙遜」とはこの世が意味する謙遜ではなく、聖書が教えている謙遜、それはイエス・キリストにおいて究極的な姿として顕わされている謙遜です。パウロは御子イエスの謙遜を次のように表わしています。

    【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙2章6~9
    6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
    7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ
    8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
    9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

  • この御子イエスの従順こそ、真の「謙遜」の姿です。パウロはこの謙遜を見倣うようにと勧めています。しかもそのことが「自分の救いを達成する」ことにつながるのだとも言っています(ピリピ2:12)。もし、私たちが自覚的に主に対して従順であることを自分の召しとして受けとめるなら、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ですから)すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(同、2:13, 14)と語りかけています。
  • 謙遜への招きについて、主イエスご自身は以下のように語っておられます。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)。

「わたしにとどまりなさい。・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4, 5)。

  • 御子イエスはいつも御父とくびきを共にしておられました。御子はいつも御父にとどまっておられました。そしていつも御父の呼吸と合わせておられたのです。その御子が私たちに「わたしのくびきを負いなさい」、「わたしにとどまりなさい」と呼びかけておられます。この呼びかけは「謙遜」への呼びかけです。私たちは主イエスの謙遜に学ぶように招かれています。そしてこの招きに応えることは、「自分の救いを達成すること」につながります。使徒パウロは自ら意識的にそのように生きただけでなく、主にある者たちに対しても「私を見倣うように」という姿勢で主に仕えました。真の謙遜の回復は、神の栄光が現わされていく道であると信じます。


2013.12.10


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