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誇る者は、主にあって誇れ

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12. 誇る者は、主にあって誇れ

【聖書箇所】 9章1節~26節

ベレーシート

  • 「誇る者は、主にあって誇れ」というタイトルは、使徒パウロがコリントに宛てた手紙の中で使っているものです(第一9:31、第二10:17)。これはパウロがエレミヤ書9章24節の引用の要約と言われています。今回は、そのことばの意味するところを思いめぐらいしてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 9章24節

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──


1. エルサレム滅亡の預言

  • 主の民に対する告発がなされています。

「まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。」(3節後半)
「彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。」(6節)

それゆえ

「わたしはエルサレムを石くれの山とし、ジャッカルの住かとする。ユダの町々を荒れ果てさせ、住む者もなくする。」(11節)
「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶滅させる。」(15~16節)
「人間のしかばねは、畑の肥しのように、刈り入れ人のあとの。集める者もない束ののように、横たわる。」(22節)

  • 以上のようなエルサレムの滅亡の預言の理由として、主は次のように語っています。
    「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨てて、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ。」
  • 北と南の大国の狭間に置かれていたイスラエルは、常に、中立を保つように語られてきました。中立を保つとは、両大国のいずれにも助けを求めることなく、ただ神にのみ信頼する立場です。しかし現実の大国の勢力に危機を覚えたイスラエルの王たちは、中立を保つことができずに大国の助けを求めました。それがバアル礼拝につながってくるのです。
  • バアルに従って歩むとは、国際情勢の危機の中で生存と防衛の保障を神でないものに求めようとした現われです。これは現代でもクリスチャンが社会の中で、会社と言う一つのこの世の組織の中でいかに生きていくかということと関係しています。主の道を第一とすれば、昇進は望めないかもしれません。経済的にも、地位的にも安定は望めないかもしれません。妥協の道を選べば自分の望むものは手に入れることができるかもしれませんが、多少は偽りや欺きの道も受け入れなければならないかもしれません。神の教えをどこまでも第一とするか、妥協して安心と思える道を選び取るか、そうした狭間に置かれることが、聖書では国レベルで語られています。エレミヤがユダの民に語っていることは決して昔のことではなく、現代の課題でもあるのです。
  • エレミヤの時代のユダの民は、エルサレムは決して滅びることはないという幻想的な確信を持ちながら、神の教えを捨て、自分の知恵を誇り、自分の強さを誇り、自分の富を誇っていたのです。そのような現実に対して、神はさばきを突きつけました。

2.  「神を知る」とは

  • エレミヤ書では「神を知ること」について最重要視しています。
    2:8/4:22/9:2, 5/22:16/24:7/31:34等参照。エレミヤの先輩であるホセアも同様です。ホセア4:1, 6/5:4/6:5/8:2も参照。

【新改訳改訂第3版】 エレミヤ 9:24
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──

【新共同訳】 9:23
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

  • ここは、神が何を喜ばれるかを知るのできる重要な部分です。人間が誇るものといえば、「自分の知恵」「自分の強さ」「自分の富」です。さらには「自分の美」「自分の成功、業績」「自分の名誉」なども加わります。しかし、エレミヤ書9章23(24)節で神が喜ばれるのは「神を知ること」です。
  • ヘブル的な「知る」とは、信じること、信頼すること同義です。「信じる」と言っても、人間の主観的な思い込みによるものではなく、あるいは、確信という名の憶測による判断でもありせん。信仰とは、むしろ私たち自身の力では有することのできないものです。それは神から与えられる「悟り」なしには決して得られないものです。ですから、「悟りを得て、わたし(神)を知ること」とあるのです(エレ9:23)。「悟りを得て」という部分を、新共同訳は「目覚めて」と訳しています。これは意訳ですが、ここで言わんとすることをうまく訳していると言えます。原語は「サーハル」שָׂכַלで、「成功する」「戦果をあげる」「悟る」「悟らせる」「賢くする」「思慮がある」「栄える」といった意味があります。旧約では60回。詩篇や箴言の特愛用語です。ちなみに、名詞の「セヘル」שֶׂכֶלは思慮、理解の意味。
  • 「悟りを得て」「目覚めて」神を知ることの具体的な内容は、神の「恵み(ヘセド)」と「公義(ミシュパート)」と「正義(ツェダーカー)」です。ミカ書6章8節にも、主が私たちに求めておられることが記されています。ただし、そこでは「公義(ミシュパート)を行なうこと」「誠実(ヘセド)を愛すること」「神とともに歩む(ハーラフのヒットパエル態、すなわち、主体的、自発的に歩むことを意味する)こと」の三つとしています。エレミヤの場合は、神がどのような方として主を知ることかに強調点が置かれていますが、ミカの場合は、神がどのようなことを喜ばれるを知って、それを行なうことに強調点があります。
  • エレミヤ書の9章と共通しているのは、共に前の二つー「ミシュパート」と「ヘセド」です。いずれも重要な語彙です。

(1) 「ミシュパート」מִשְׁפָּט

「ミシュパート」とは神の統治支配の総称です。人間に自由意思を与えて、神への信頼と従順を求められます。同時に神を信頼する者に生存と防衛を保障する神です。

(2) 「ヘセド」חֶסֶד

「ヘセド」とは神と人とを結ぶ愛の絆を意味します。両者を結ぶ愛であると同時に、その愛に対する誠実さをも含めた言葉です。つまり、愛とそこにとどまり続ける責任をも意味するのです。「契約」とはこのヘセドによる交わりのことを言います。「新しい契約」においては、この交わりが御霊の助けによつてなされるのです。そこが旧約と新約の大きな違いなのですが、いずれも責任あるかかわりが求められていることには変わりがないのです。そしてそのかかわりを自分の力でなすか、それとも御霊の力でなすかの違いです。

2013.2.1


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