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詩30篇/B

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瞑想Ps30/B

  • この詩篇30篇には相反する状態を表わすことばが多くあります。「病気と健康」「滅びといのち」「御怒りと恩寵(愛顧)」「夕暮れと朝明け」「涙と喜び」「嘆きと踊り」「沈黙と賛美」「順境と逆境」・・・・栄枯盛衰ということばがあるよう、このリズムは私たちにとって何を意味しているのでしょうか。
  • 人生はまさに波のようです。山もあれば谷もあります。しかし、いつも山の状態が続くことはありません。いつも谷の状態にあることもありません。人によってその波長が大きいか小さいかの違いはあっても必ず山と谷があるのです。このことを知ることは私たちを大いに安心させます。ところが、私たちの心は山にいるときは傲慢になり「私は決してゆるがされない。大丈夫だ」と思います。また谷底にいるときは「私は神から見離されてしまった。どうしよう。」とおじ惑うのです。この繰り返しの中で生きているのが私たちの現実ではないかと思います。客観的に見るならば、波のリズムはまさに自然の姿であり、いのちの躍動でもあります。しかし実際に事が自分に及ぶと、いつもそのように捉えることができないのが私たちなのだと思います。
  • ダビデも、自分が順境の中にあったとき、それに陥っていました。6節、7節にはこうあります。「私が栄えたときに(新共同訳/平穏な時、口語訳/安らかな時)、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』 主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。(口語訳/私をゆるがない山のように堅くされました)」と。
  • 健康傲慢ということばがあります。健康であることは確かに神の恵みですが、その恵みに狎れると傲慢になります。ですから、病気になったとき、しかも死に至るような病に陥ったとき、ダビデは神が「御顔を隠され」たと感じたようです。(7節)彼は意気消沈しておじ惑いました。
  • プラスの状態からマイナスの状態に陥ったときはおじ惑って神を呼び求め、マイナスの状態からプラスの状態に引き上げられたときは喜びのあまり神に感謝して賛美する。そして、いつの間にか傲慢になっている・・・。なんと私たちは状況に支配されやすい弱い存在かと思います。確かに、「嘆きを踊りに変え」られるような、あるいは、どん底から「引き上げられる」ような経験はすばらしいことです。しかし、たとえどんなにすばらしい経験であっても、やがてその感動は力を失い、マンネリ化してしまいます。そのために、神はしばしば「御顔を隠される」のだと思います。それは、私たちが神の恩寵に狎れることなく、いつも新鮮にそれを感じられるためです。だとするならば、御顔を隠されることもまた神の恩寵です。山にいるときも、谷底にいるとも、どんなときでも神の恩寵は注がれているからです。山にいるときも、谷底にいるとも、どんなときでも神の恩寵は注がれ続けていることを覚え、ダビデのように、状況に支配されることなく、「私はとこしえまでも、あなたに感謝します」(12節後半)と申し上げたいと思います。

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