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詩119篇における「大いなる問い」

詩119篇における「大いなる問い」


1.「問いかける」ことの大切さ

  • 詩119篇の第二段落には大いなる「問いかけ」があります。その「問いかけ」とは、9節にある「どのようにして、若い人は自分の道を保つことができるのか」というものです。
  • このような問いかけは旧約においては他にもありますが、詩篇ではここ1箇所だけです。しかしここは重要な箇所です。
  • 「問いかける」ことは、ただ単に答えを直ぐに見つけることにあるのではありません。答えがすぐに見つからなくても、その問いを心に納め、秘め置くことが大切です。そうすることで、短絡的な答えで満足することを防ぐことができます。特に、神のことばについて秘め置くことは、詩1篇にもあるように「昼も夜も、主のおしえを口ずさむ」ことにつながります。「問いかけ」の鋭さは、新たな光を見出します。
  • 特に詩篇の瞑想において重要なのは、〔継続力〕〔集中力〕〔問う力〕の三つです。これらは瞑想を養う大切な三位一体の〔力〕です。特に自ら「問う」ことは、ものごとの本質を見抜く力、洞察力が研磨されていく上で必須なものです。答えはそのときどきによって変わることがありますが、「問う力」は日々養われ、研ぎすまされる必要があります。この「問う力」こそが、「学び」のはじめと言えます。時間はかかりますが、確実に、物事の本質に迫って行く道が備えられてくると信じます。

2. 詩119篇の作者が問いかけた事柄とは

  • 詩119篇の作者が問いかけた事柄は、「どのようにして、若い人は自分の道をきよく保てるか」ということでした。この問い自体にも問いかける必要があります。「若い人」とはどういう人のことか。また、「きよく保つ」とはどういうことか。その問いについて自分なりの答えを出して置く必要があります。
  • 「きよく保つ」と訳されたことばは「ザーハー」זָכָה(zakhah)です。旧約では8回、詩篇では3回(51:4/73:13/119:9)、詩119篇ではここだけに使われています。「純粋に保つ」という意味です。NIV訳では keep his way pure と訳されています。純粋とはどういうことかと問いかけます。性格的、道徳的な意味での「純粋」さではなく、おそらくここでは神と人とのかかわりにおける「純粋さ」だと考えます。とすれば、どういうことが純粋なのか、単なる気持ちの問題ではないと考えます。ここで、「自分の道」ということばが出てきます。またこの詩119篇には「全き道」「主の道」ということばが出てきます。とすれば、その「主の道」と「自分の道」が、あるいは「主の道」と「私の道」がしっかりと重なり合う状態、それが「きよく保つ」ということを意味するのではないかと思います。
  • とすれば、私たちは主のみおしえや戒めを主から「教えて」いただかなければなりません。ですから、作者は「あなたのおきてを私に教えてください。」(12節)と祈っています。「教える」ことも、「学ぶ」ことも、ヘブル語では「ラーマド」לָמַד(lamad)です。主のおきてを教えていただくことは、学ぶことであり、逆に主のおきてを学ぶためには、教えてもらわなくてはなりません。つまり、問うことを通して、はじめて上からの光(啓示)をいただくことができ、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りが与え」られることを経験するのです(119:130)。
  • 詩119篇では、「どうしたら、若い人は自分の道をきよく保つことができようか。」という問いに対する答えとして三つ上げられています。しかも、その答えは別々の事柄ではなく、相補性をもっています。


①「あなたのことばに従って、それを守ること」、
②「心を尽くして、あなたを尋ね求めること」、
③「あなたのことばを心にたくわえること」
-を挙げています。

  • ここでは、特に、③の答えに注目してみたいと思います。

3. みことばを心に「たくわえる」とはどういうことか

  • 「たくわえる」というと、みことばをたくさん覚えることだとイメージします。そういう面も確かにあるかもしれません(脚注)。しかし、単に、たくさんのみことばを覚えれば良いということではないように思います。なぜなら、頭にではなく、「心に」とあるからです。「心にたくわえる」とはどういうことかを時間をかけて考え、思いを巡らします。そのようなプロセスを経て与えられた問いの答えを「たくわえる」ことです。人の答えをどこからか見つけて、それを頭に中に詰め込むことではなく、「昼も夜もみおしえを口ずさみ」ながら、牛が草をなんどもにれ食むように、思いを巡らして答えを見つける。それを心の中にひとつひとつたくわえて行く事だと思います。
  • 詩119篇の作者は、主の道と自分の道が重なるようにするために、常に、主のみおしえや戒めに問いかけながら、思いを巡らし、それによって得た光(答え)を心の中に一つひとつたくわえていくこと、あるいは、秘めおいていくこと、そうした作業のひとつひとつの積み重ねが「たくわえる」ことだと理解していたのではないかと思います。


脚注

「ユダヤ人は聖書を暗記することを青少年たちに徹底的教育する民族なのだ。・・このような教育が三千年近く積み重ねられてきたユダヤ民族。・・ユダヤ人の勉強法は徹底した音読と暗記である。それは、ただの音読ではない。声を出して読みながら身体を動かし、時にはその読んでいる文章に節をつけて、歌うように読む。この音読と身体を動かすことが脳を活性化し、歌うことが記憶力を高める。このユダヤの勉強法こそが、ユダヤ人の優秀な頭脳をつくり出してきたともいえるのだ。」(青木偉作著『頭が良くなるユダヤの勉強法』2009, 中経出版、文庫、99頁)


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