****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

詩1篇/B

Ⅰ/A(1~41篇) | テキストPs1 | 原典テキストPs1 | 瞑想Ps1/A | 礼拝用語Ps1 | 恩寵用語Ps1 |Ps1の「かかわりの構造」 |

瞑想Ps1/B

  • この詩1篇のキーワードを「主の教えを喜びとする者」としたいと思います。「喜びとする」とは、しなければならないからするといった義務や強制や束縛が全くないということです。つまり、自発性や自由さを意味することばと言えます。そうした喜びをもつ者は、なにをしても、「栄える」と信じます。
  • ただ、この詩篇の作者が自ら「主の教えを喜びとする」ようになったその要因として、バビロン捕囚の経験を抜きにできません。というのも、それまで神の民が「主の教えを喜びとすること」、つまり、「昼も夜もそれを口ずさむ(瞑想すること)」ことはなかったからです。バビロン捕囚の経験が彼らにとってなにをもたらしたのか、それを自分のこととして知ることが、私にとって、詩篇を瞑想する原動力となっています。
  • 私はかつて主に対して大きな罪を犯しました。その結果、多忙をきわめた働きから切り離されました。これは私にとってのバビロン捕囚の経験だと思っています。「忙しい」とは、「心を亡ぼす」と書くように、それは主の弟子にとって決して良いことではないようです。私にとってのバビロン捕囚経験は、「働き(Doing)」(神のための働き)よりも、「存在(Being)」(神とのかかわりにおける存在)の大切さを自分のために学ぶことでした。そしてそれは今も続いています。
  • 主の教えを「喜びする」「心を尽くす」「思いを潜める」というのは、もともと私たちの心には存在しないものです。それゆえ自分が「水のほとりに」植えられている(受動態)という主の恵みを覚えることが必要なのだということを心にとどめたいと思います。私にとっての瞑想の目的は、「わたしにとどまりなさい。そうすればわたしもあなたにとどまります。わたしを離れては、あなたは何もすることができないからです。」と言われた主のことばの真意を悟るようになることです。
     

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional