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詩篇における「人称なき存在」の声」

詩篇における「人称なき存在」の声


  • 詩篇には人称代名詞ー「私」、「わたし」、「私たち」、「あなた」、「あなたがた」、「彼」、「彼ら」ーが登場しますが、ときには誰がこの詩篇を語っているのかわからないという詩篇も数多くあります。たとえば、第1篇第2篇がそうです。この二つの詩篇を語っているのは「人称なき存在」です。第2篇の6節、7節、8節にある「わたし」は、場所によって、「御父」であり、「ダビデ」であり、「あなた」は、御子を表していますが、それは神の舞台裏のことであって、舞台で語っているのは存在は別です。その存在こそ、実は「聖霊」です。
  • 他の例としては、詩篇58篇がそうです。58篇では「力ある者」に対して、つまりこの世で権力を与えられている者たちが、正しい公正なさばきをしていないことが訴えられ、そのさばきが神によってなされることを預言しています。この預言している「人称なき存在」こそ、聖霊です。
  • 御子イエスが当時の指導者たちに対して、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書(旧約聖書のこと)が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5:39)と言われていますが、当然、旧約の詩篇も「わたしについて証言している」ということができます。「わたしについて証言している」ということは、詩篇の祈り手がキリストであることを証言しているということをです。例えば、詩篇の中にある「わたし」、あるいは「私」が実際にダビデであったり、他の者であったとしても、その詩篇の「わたし」、「私」は、御子イエスが祈った祈りであり、その祈りの真の実現者であるということです。
  • また、新約聖書の使徒1章16節には、使徒ペテロが詩篇をどう理解していたが分かります。「聖霊がダビデの口をとおして預言されたことばは、成就しなければならなかった」という言葉です。実際には、イエスを裏切った後、死んだイスカリオテのユダの代わる人物を選ばなければならないときに語ったことですが、使徒ペテロをはじめとする初代教会が詩篇をどのように理解していたかを示す重要なことばだと言うことが出来ます。それによれば、「ダビデの口を通して預言された聖書のことば」とは、詩篇を意味します。その詩篇がはっきりと「聖霊が」としているのは、詩篇の中に登場する「人称なき存在」のことばとして受け取ることができるのではないかと考えます。それは、神の第三位格である聖霊です。しかもその聖霊が語る内容は、知恵としての格言であったりしますが、その多くが神の救いのご計画の全体像からの発言であることが分かります。
  • 先にあげた、詩1篇、詩2篇、そして詩58篇も神の救いのご計画の「終わりの日」について語られています。そこには神に敵対する者たちのさばきです。このさばきは「終わりの日」ですが、最初のさばきはイエス・キリストの十字架と復活によって、当時の指導者たちの計らいは失敗し、むしろ神の勝利を成し遂げるものとなってしまいました。もう一つのさばきはこれからのことです。キリスト再臨の前には反キリストが立ち上がり、ユダヤの民たちに苦しみをもたらします。しかし、キリストの再臨によって彼とそれに従った者たちは完全に打ち滅ぼされます。このことが、詩篇2篇にも、また詩篇58篇にも預言されているのです。
  • そこから、世の権力者たちに対して、また、神の民たちに対して、「人称なき存在」である聖霊は次のように勧告と希望を語っているのです。

「それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。・・御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。」(2:10~12)
「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(2:12)

「こうして人々は言おう。『まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」


2010.12.11

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