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表題 エゼキエルのプロフィール

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1. エゼキエルのプロフィール

【聖書箇所】 1章1節~34節

 ベレーシート 

  • エレミヤとエゼキエルとを比較してみましょう。

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  • 冒頭の1~3節の中に多くの情報があります。瞑想していく上で重要な情報です。ひとつひとつ丁寧に整理していく必要があります。

1. エゼキエルが神に召された年齢と年代

  • エゼキエル書 1章1節「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」とあります。「第三十年」の意味については、大方の注解書では「エゼキエルの年齢」としています。新改訳のチェーン式バイブルの脚注には「ヨシヤ王による宗教改革から数えて三十年目が丁度、2節にある「捕囚から五年目にと一致する」とあります。確かに一致しますが、その意図するところが明確ではありません。
  • エゼキエルが30歳で召命を受けたとすれば、それはエルサレムでは正規の意味で祭司としての働きが出来る年齢でした。イェシュアが30歳になってから公生涯を始められたこととも結びつきます。
  • エホヤキン王が即位してからわずか三か月でバビロンに投降したことで、王とその家族、および有能な者たち1万人が、第一回目のバビロン捕囚として連れて来られました。それは彼の父エホヤキムがバビロンのネブカデレザルに反旗を翻したために、エホヤキムが死んだ後、すかさずエルサレムが攻略されたためです。そして第一回の捕囚が起こるのですが、その中に祭司エゼキエルがいたのです。その捕囚から五年目にエゼキエルは預言者として召されたのです。エゼキエルはそれから捕囚解放の時まで生きていたとすれば、その時の年齢は83歳であったことになります。それまで、エゼキエルは、ケバル川のほとりにあるテル・アビブというユダヤ人の居留地(3:15)に自分の家を持ち(8:1)、預言活動をしたと思われます。
  • 「エゼキエル」(יְחֶזְקֵאל)と言う名前は、「神によって力づけられた者」、あるいは「神は強い、神は堅い」という意味です。預言者エレミヤは柔和な感受性の強い性格でしたが、それに比べてエゼキエルは恐るべき意志の強い性格でした。

2. カルデヤ人の地のケバル川のほとり

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  • エゼキエルらが捕囚として連れて行かれた地は「カルデヤ人の地のケバル川のほとり」でした。「カルデヤ」とは、南西メソポタミヤ地方の名前です。聖書ではバビロンと同義語で使われています。詩篇137篇の冒頭に「バビロン川のほとり」とありますが、まさにその場所です。「川」の原語も「ナーハール」(נָהָר)で同じです。ちなみに、詩篇1篇3節にある「水路」の原語は「ペレグ」(פֶּלֶג)で、自然の川ではなく灌漑溝のような人の手によって造られた水路を意味しますが、「ナーハール」も同様に運河と考えることができます。バビロンはチグリスという川とユーフラテス川という川の間に存在する町であり、地形的に川から水を灌漑しなければ、穀物を育てることはできなかったようです。

3. 天が開けて見た神々しい幻

  • エゼキエルが神からの召命を受ける時に、「天が開け」ました。この表現は旧約ではこの箇所だけです。新約では7回この表現が使われていますが、すべて神の歴史において意味のある重要な時点です。

    (1) イェシュアの公生涯に入る前の洗礼を受けた後で(マタイ3:16、マルコ1:10、ルカ3:21、ヨハネ1:51)
    (2) ステパノの殉教の時に(使徒7:56)
    (3) 異邦人への福音宣教の準備をさせるためにペテロに対する幻の中で(使徒10:11)
    (4) キリストの再臨のヴィジョンをヨハネに見せるために(黙示録19:11)

  • 「天が開かれて」エゼキエルが見たものは、「神々しい幻」でした。「神々しい幻」と訳しているのは新改訳と岩波訳と関根訳です。「神の幻」と訳しているのは口語訳と尾山訳とバルバロ訳です。新共同訳は「神の顕現」と訳しています。原語は「マルオート・エローヒーム」です。「幻」と訳された「マルアー」(מַרְאָה)は「黙示」とも訳されますが、エゼキエルでは1章1節の他に3回使われています(8:3/40:2/43:3)。しかし「神々しい」と形容詞的に訳されている原語は「エローヒーム」(אֱלֹהִים)です。新改訳では「マルオート・エローヒーム」をすべて(エゼ8:3/40:2/43:3)「神々しい幻」と訳しています。おそらく特異な幻のゆえに「エローヒーム」を「神々しい」と訳したものと考えられますが、内実は神の幻に他なりません。それは神の顕現の現われであり、神がおられる所には多くの御使いが仕えていますから、そうした現われをエゼキエルは目で見、その見たままの光景を文字で表わそうとしているのです。
  • 芸術の世界で、色彩を音の響きで表現しようとする作曲家(フランスの現代作曲家のオリヴィエ・メシアン)がおります。しかしそれを聞く者がその音で色彩を感じるとは限りません。しかしその作曲家にはそう感じるのです。エゼキエルは自分が見た神の幻や顕現を文字で表わしています。特に1章にある幻はなかなか理解できないためか、エゼキエル書は他の預言書よりも読まれないようです。しかしもし聖霊によってこの書を理解することができるなら、大きな祝福を受けることができます。エゼキエルの見た幻は、黙示録の幻と密接な関係があります。特に、エゼキエル書の最後に記されてある「再建されたエルサレムの神殿」の幻は、ヨハネの見た「新しいエルサレム」の幻とよく似ています。ちなみに、神のおられる御座はさまざまな色からなっているようですが、その色は光の色であり、その光が集まるその中心は白く輝いているだけです。そこに神がおられるのです。

付記

●神が「北から」来るというこのパターンを繰り返す箇所がいくつかあります。
(1)最も注目すべきは、神が北の遠い嵐からやって来て、ついに彼を覆い隠すエゼキエルの幻です(エゼキエル 1:4)。
(2)ヨブは神が北から黄金の輝きに包まれてやって来たと描写しています(ヨブ 37:22-23)。
(3)バビロンの王ルシファーは神の玉座が極北にあると描写しています(イザヤ 14:13~14)。
(4)エルサレムが「極北」に位置すると書かれています(詩篇 48:1~2 )。


2013.4.17


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