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良い地の「水」


シリーズ「乳と蜜の流れる地」 No.2

「良い地」は「いのちの水」

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【新改訳2017】申命記8章7~10節
7 あなたの神、【主】があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、
8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
9 そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。
10 あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、【主】をほめたたえなければならない。

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●今回は、シリーズ「乳と蜜の流れる地」の第2回目です。「乳と蜜の流れる地」とは、「良い地」(「エレツ・トーヴァー」אֶרֶץ טוֹבָה)であり、神がイスラエルの父祖たちに与えると誓った地、つまり「カナンの地」です。申命記8章7~10節は、「キリストの測り知れない豊かさ」を啓示しています。上図にあるように、「」(水の流れ、泉と深い淵)、「」(ぶどう、いちじく、オリーブ)、「穀物」(大麦、小麦)、「動物」と「植物」で「乳と蜜の流れる地」と神は表現しています。そして無尽蔵な「鉱物」(鉄、青銅)です。それは石が造り変えられることを意味します。それらがすべてキリストを啓示しているのです。

●今回取り上げるのは、「水」(「マイム」מַיִם)です。聖書では「水」が神によって造られたという記述はありません。最初から存在しているのです。なぜなら「水」は神のことばのメタファーだからです。この「水」が「良い地」には豊富に存在しているのです。聖書を見てみましょう。

●申命記8章7節の「良い地」(「エレツ・トーヴァー」אֶרֶץ טֹובָה)には、「谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵」があると記されています。
①「谷間」(「ビルアー」בִּרְעָה)は「平地」も含んでいます。ここでは複数形の「谷間」です。
②「」(「ハル」הַר)も複数形の「山々」です。
③「湧き出る水の流れ」は「ナハレー・マイム」(נַחֲלֵי מַיִם)で、複数の水の流れです。
④「」は「アイン」(עַיִןの複数)。
⑤「深い淵」は「テホーム」(תְהוֹםの複数)。

●聖書における水は、「大地の全面を潤す豊かな水(「エード」אֵד・地下水)」(創2:6)があり、「エデンから湧き出て園を潤している川(「ナーハール」נָהָר)」(創2:10) があります。新しいエルサレムでは、「水晶のように輝くいのちの水の川」(黙22:1)となっています。これらの水は「渇くことのない霊的な水」であり、キリストを啓示しています。水はどんな食物よりも重要です。なぜなら渇きは飢えよりも深刻だからです。食物なしに数日間過ごせても、水無しには生きることはできません。水が人の生命にいかに重要であるか、しかも水のことでいかに争いが起きるかを聖書の中に見ることができます(創21章、出15章、民20章)。しかし、イェシュアが山上の説教で語られた「渇き」とは霊の渇きです。マタイ5章3節の「心の貧しい者」とは、原文では「霊の貧しい者」のことを言っています。ここでイェシュアは機能不全を起こしている人の霊のことを「貧しい」と言っているのです。そしてなぜそのような者が幸いなのかといえば、イェシュアの「いのちを与える御霊」によってやがて満ち足りる者とされるからです。天の御国のすべてがその人のものとなるからです。天の御国のすべてがその人のものとなるということは、「キリストがその人のすべてとなる」ことを意味しているのです。イェシュアの語ることばは預言的です。イェシュアの死と復活によってそのことばが実現するからです。今回扱われる「水」は他のものに比べて、優位的な位置にあります。なぜなら水がなければ木も、またすべての食物(穀物、植物、動物)も存在し得ないからです。

1. 人の霊を生かす「いのちの水」

「そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地」(申命記8:7)

●「湧き出る水の流れ」は「ナハレー・マイム」(נַחֲלֵי מַיִם)です。これは良い地における「谷間(平地)」(「ビルアー」בִּרְעָה)と「山」(「ハル」הַר)のそれぞれに湧き出る水の流れという意味ではなく、「谷間」から「山」へと流れる水の流れのことを意味します。谷間と山がなければ水の流れは起こりません。全地が平らであるなら水の流れはありません。カナンの地はエジプトの地とは異なり、起伏が多い地形です。谷間と山々という順序にも意味があります。なぜ、「山と谷間」ではなく、「谷間と山」という順序になっているのでしょうか。たましいで考えるなら、水は山から平地へと流れると考えます。しかし「谷間と山」となっているのは、この水の流れが自然の流れではなく、霊の流れであるからです。つまり「谷間」は「死」の象徴であり、その経験を意味します。「山」は「復活」の象徴であり、その経験を意味します。「谷間」から「山」の流れこそが、神にとって甘い水の流れなのです。

●「谷間」と「山」とは、単なる自然界の谷間と山のことではなく、それらが霊的な経験を表す「たとえ」となっています。創世記1章では「夕があり、朝があった」というリズムがそれを表しています。そこでも「朝があり、夕があった」ではなく、「夕があり、朝があった」としているのは、これが神の定めた救いのリズムだからです。つまり「夕」は「死」を意味し、「朝」は復活を意味します。これは預言的です。キリストが復活されたのは「夕」ではなく、「朝」であったことがそのことを物語っています。こうした神のリズムは、詩篇の中では「嘆きからたたえへ」、「嘆きを踊りに」、「涙から喜びの叫びへ」という霊の流れとして見ることができます。詩篇以外にも、「捕囚から帰還へ」、「曲がったがったものがまっすぐになる」といったいのちの水の流れが預言されています。これこそが死と復活のリズムであり、神の甘いストーリーなのです。使徒パウロもこのリズムで自分の霊の経験を描いています。たとえば、以下がそうです。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙6章8~10節
8 また、①ほめられたりそしられたり、②悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。③私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
9 ④人に知られていないようでも、よく知られており、⑤死にかけているようでも、見よ、生きており、⑥懲らしめられているようでも、殺されておらず、10 ⑦悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、⑧貧しいようでも、多くの人を富ませ、⑨何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

●ここには九つの「谷間」と「山」があります。この格差が大きければ大きいほど、水の流れは大きなものとなります。谷間や山があるということは、キリストにあるいのちの水が流れるために存在しているのです。神である主は、選びの民をそのような良い地に導き入れるのです。カナンの地のすべてのものは、良い地であるキリストを啓示しているのです。

●パウロは多くの谷間と山々の境遇の中で、キリストにある生けるいのちの水の流れを経験した人です。それはキリストの死と復活を追体験したと言えます。そのパウロの「・・・私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。・・ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリピ4:11~13)ということばが、そのことを物語っています。まさに「・・涙の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とします」(詩篇84:6)ということを、実際に経験していくことが重要なのです。キリストを啓示する「良い地」には、「谷間」も「山」もあり、そこに湧き出るいのちの水の流れがあるのです。そしてその水を飲む必要があるのです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙3章17~21節
17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

●十字架の敵として歩む者たちは「ギホンの流れ」にある者たちで、「おのが腹を神とする人々」であり、「地上のことだけを考える者たち」のことです。それに対して「ピションの流れ」にある者たちとは、良い地の湧き出る水の流れに与る者たちです。そして良い地において、イェシュアの再臨を待ち望み、卑しいからだが変えられることを待ち望む者のことです。

2. 無尽蔵のいのちの水を味わう

「そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地」(申命記8:7)

●キリストのすべてを啓示する「良い地」には、多くの「泉」と多くの「深い淵」があるということです。ところで、「泉」と「深い淵」との違いは何でしょうか。ここでの「泉」は「アイン」(עַיִן)の複数形、同じく「深い淵」は「テホーム」(תְהוֹם)の複数形です。「深い淵」と訳された「テホーム」は「地下水」、つまり井戸や泉の源泉のことです。「目に見える泉(アイン)」と「目に見えない源泉としての地下水(テホーム)」の違いです。「アイン」は表された部分ですが、「テホーム」は隠された部分で、尽きることのない源泉です。つまり、渇くことのない源泉としての水、それが「テホーム」の存在です。

●ヨハネの福音書4章はイェシュアがサマリアの女と出会う箇所です。聖書では出会いが井戸や水場であることが多いですが、ここでもそうです。エリエゼルとリベカの出会いも「泉」がある場でした(創24:16)。モーセがツィッポラと出会ったのも井戸でした(出2:15~21)。イェシュアとサマリアの女の出会いの場も同じく井戸です。いわば井戸は「目に見える泉」で、その井戸は普通は「目に見えない源泉」(テホーム)とつながっています。ところがイェシュアはサマリアの女に、「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:13~14)と語りました。このイェシュアのことばは霊であり、いのちです(ヨハネ6:63)。しかも預言的です。イェシュアの与える水とは、イェシュアの復活後にもたらされる「いのちを与える御霊」のことです。それは「人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出る」のですが、ここに「良い地」(キリスト)にある「泉と深い淵」があります。

●女は「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言います。「ここに汲みに来なくてもよいように」と言って、都合の良い便利な水くらいにしか考えていません。彼女は「ヤコブの井戸」しか知らないので、イェシュアの与える水が分からないのです。

●ヨハネの福音書7章で、イェシュアは仮庵の祭りの「大いなる日」に、つまり、その祭りの最終日に次のように言われました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書 7章37~39節
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

●ここでイェシュアは「渇いている者」に呼びかけています。ひとたび満たされたとしても、それを持続することができず、また渇いてしまいます。一時、霊の感動を受けてもそれがずっと続いていかないのが常です。ところがイェシュアは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と言ったのです。ここにも「泉と深い淵」が言い表されています。「人の心」とは「泉」の部分ですが、「その奥底」とは「深い淵」に相当する部分です。その「深い淵」が天に直結しており、「泉」は枯渇するがない、絶えず尽きることのない新鮮な水が供給される源泉であることを意味しています。最初のアダムの罪のゆえに、人の霊は機能不全を起こしています。ところがその部分が回復して、「生ける水の川が流れ出るようになる」ということです。人の霊の部分から生ける水が流れ出るようになるので、渇きが満たされるようになるのです。これは、イェシュアを信じる者が受けることになる御霊によって可能なのです。ただし、イェシュアがまだ栄光を受けておられなかったので、「御霊はまだ下っていなかった」(括弧の中の原文は「彼はまだ霊ではなかった」)とあります。「御霊はまだ下っていなかった」は、ペンテコステの聖霊降臨のことだと誤解させる訳です。

●イェシュアが栄光を受けるのは「復活の時」です。イェシュアは復活の朝(=初穂の祭り)に、ご自身の復活の初穂のからだを御父に献げるために「秘密の昇天」をしています。それからその日の夕方に地上に戻って来られ、弟子たちが隠れていた部屋に入って来て、息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われました。弟子たちはその息を吸い込んだので、聖霊を受けたのです。イェシュアが約束されたことが成就したのです。彼らは、4章でサマリアの女に語られた「イェシュアの与える水・永遠のいのちへ水」、7章38節で約束された「生ける水の川」である聖霊に満たされたのです。「満たされた」と「成就した」ということばは同じく「プレーロー」(πληρόω)です。これはイェシュアが復活して「いのちを与える御霊」となって人の霊を回復し、その中に内住されたことを意味しています。

●人の霊の部分の機能を回復するために、神の全能の力を必要としたのです。その全能の力はイェシュアの死からの復活に現わされました。しかもすでに神の側においては包括的になされていて、それを私たちのものとするためには、神がしてくださったことをそのまま信じることが不可欠です。この出来事はペンテコステの日に「天から激しい風が吹いてきて(彼らの外側が)聖霊に満たされた」こととは別の経験です。ペンテコステの聖霊の満たしは「ピンプレーミ」(πίμπλήμι)と言い、原語が異なります。「プレーロー」(πληρόω)は内側の満たしを言い、「ピンプレーミ」(πίμπλήμι)は外側の満たしを言います。どちらも重要なのです。いずれも人の力によらない神の力であり、神の一連の贖いの出来事による恵みの賜物なのです。つまり神の無償の賜物なのですが、これがないと御国に入れる保証はありません。

●イェシュアの「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」という約束は、いのちの水が尽きることなく「流れ出る」、つまり「湧き出る、吹き出るようになる」ことを意味します。「流れ出る」(「レース―スィン」ῥεύσουσιν)ということばは、新約ではこの箇所のみに使われています。すでに与えられていますが、いまだ完全にはそうなっていないのです。しかし必ずそうなるのです。今受けることができるのは、その前味としてです。パウロはその前味を可能な限り、貪欲に求めた人です。

●先のサマリアの女は「ヤコブの井戸」という伝統的な水しか知りません。その彼女に対して、イェシュアは「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言います。このことばが意図することは何なのでしょうか。イェシュアの語ることばは「霊であり、いのちである」ことを念頭に置くべきです。ヤコブの井戸は涸れる水だと言われました。それは「伝統はいのちの水を与えることができない」という意味です。その後の対話を見てみましょう。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章17~18節
17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

●イェシュアは女の素性をすべて知った上で、「あなたの夫を呼んで来なさい」と言っているのです。女は「自分には夫がいない」と正直に言います。彼女には夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではありません。ない。ですからイェシュアは「あなたは本当のことを言ってくれた(=真実なことを適切に言ってくれた)」と彼女をほめています。彼女は自分が何を言っているのかを知らずに話しているのです。ここでの対話の主旨は、結論を先に言うなら、彼女には彼女を縛る夫が今はいないことを確認することでした。一方の女は、自分のことを正しく知っていたイェシュアに対して、本当の預言者だと知って心を開きます。それが大切なことでした。イェシュアは彼女に、ヤコブの井戸やモーセ五書といった慣習と伝統に縛られていないこと、縛られる必要がないことを、引き続きなされる会話の中で悟らせていきます。

●ヨハネの福音書はしるしの書です。表面的な話ではなく、より深い話が隠されているのです。ここで「あなたには夫が五人いた」の「五」という数は「モーセ五書」のことです。これは「五つのパンと二匹の魚」も同様です。サマリア人たちは聖書の正典をモーセ五書のみとしていたのですが、「今いるのは夫ではない」という事実を通して、伝統や慣習、教理に縛られることなく、イェシュアのことばを聞くべきであるかを、この女に悟らせているのです。パウロ的にいうならば、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:5~6)ということになるでしょう。彼女はイェシュアの語ることばに対して、「聞く耳のある一人」であったのです。こういう人を捜して救うことが、イェシュアが「サマリアを通って行かなければならなかった」ことの必然的な理由です(ヨハネ4:4)。

●イェシュアのことばに素直に向き合うことが、いのちの水を得る秘訣です。メシア王国においては「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」とあるように、いのちの水は無代価で供与されます(黙22:17)。しかしそのためにはイェシュアの語ることばを霊の中で聞くことが重要なのです。以下のイザヤ書12章は、御国を思いながら、神が自分の「救い」となられたことを預言的に賛美しています。

【新改訳2017】イザヤ書12章2~3, 6節
2 見よ、神は私の救い(イェシュア)。私は信頼して恐れない。
ヤハ、【主】は私の力、私のほめ歌。私のために救い(イェシュア)となられた。
3 あなたがたは喜びながら水を汲む救い(イェシュア)の泉から
6 シオンに住む者よ。大声をあげて喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる(「ベキルヴェーフ」בְּקִרְבֵךְ)大いなる方。」

●神の豊かさを表す象徴は「」です。しかしその泉は「深い淵」とつながっています。「泉」は人の渇きを満たすだけでなく、それがその人からも溢れ、流れ出て、他の人にも分かち与えることのできるものです。与えることによって、さらに源泉から受けるのです。なぜなら、いのちの水の泉は必ず源泉とつながっているからです。このいのちの水の循環こそが永遠のいのちがもつ本質です。ですからイェシュアは「決して渇くことがない」と言われたのです。

●イスラエルの民がエジプトにいたときには、エジプトは山や谷がありませんから、水は川から汲んで自分たちのところに運ばなければなりませんでした。あるいは、人の力で灌漑溝を造らなければなりませんでした。しかし、良い地であるカナンの地は谷あり山ありです。ですから、水を運んで来なくとも自然と流れて来る地なのです。水を得るための労苦はまったく必要ないのです。要はそれを自分のものとして飲むだけなのです。キリストを飲むことなのです。

●「アシュレークラス」を通して、私は「シェーム・イェシュア」によって、日々このことを経験していることを神に感謝しています。パウロが「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」と告白しているように、自分が「キリストにあって捕らえられた者」という意識を強くしていきたいと思います。キリストがすべてとなるために。

三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。

2023. 4.2
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