****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

脅迫にもめげない大胆さ

文字サイズ:

6. 脅迫にもめげない大胆さ

【聖書箇所】 使徒の働き 4章1節~31節

ベレーシート

  • 使徒の働きにはなんども「聖霊に満たされて」という表現が出てきます。

    (1) 2章4節
    「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」
    (2) 4章8節
    「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。『・・・この方以外には、だれによっても救いはありません。・・』」
    (3) 4章31節
    「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」

  • 使徒の働きを読む限り興味深いことに、聖霊に満たされた者たちはどこにも「聖霊を下さい」とか、「聖霊に満たしてください」と祈っていないということです。また「私は聖霊に満たされました」とも語っていません。常に、第三者が(ここではルカが)、使徒たちの状態を見て「聖霊に満たされて」と記しているということです。しかも「聖霊に満たされて」ということが、神のことば(福音)を大胆に語り出すという形において現わされているということです。
  • 今回は使徒たちの大胆さと、ユダヤ当局の使徒たちに対する「脅し」に注目したいと思います。

1. 逮捕され、留置され、尋問されたペテロとヨハネの大胆さ

  • ペテロとヨハネがサドカイ派の領地内で、何ら断りもなく民たちに教え、しかもサドカイ派たちが否定している「死者の復活」について話しているのに不快感を示しました。「ディアポネオマイ」διαπονέομαιを新改訳は「困り果て」と訳していますが、新共同訳は「いらだち」と訳しています。使徒4:2と16:18の二回しか使われていない語彙です。祭司たち、サドカイの仲間たちがたまりかねて、堪忍袋の緒が切れてといったニュアンスかと思います。祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人ーすべてサドカイ派の人々がペテロとヨハネを捕え、留置しました。
  • 翌日は、サンヘドリンのメンバーたちは集まり、「何の権威によって、だれの名によって宮で教えたりしているのか」と尋問しました。私たちも自分の権威を示すために、「だれがそれを許可したのか」、だれがそうしろと言ったのか」、「何様のつもりか」と言う事があります。権威筋の許可なく、勝手な言動は許せないということです。
  • ところがペテロとヨハネはひるむことなく、「大胆に」、生まれつき足の不自由な男が何によっていやされたかということならば、それは「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」と公然とはっきり答えただけでなく、二人を尋問しようとするユダヤ当局に対して、「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」という詩篇118篇のみことばによって、ユダヤ当局に対する断罪もしているのです。
  • ユダヤ当局はヘテロとヨハネの大胆さとを見、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」とあります(4:13)。まさに二人の態度にイエスの姿を見たということかもしれません。
  • ここで重要なことばとして「大胆さ」があります。ギリシャ語辞典には次のように説明しています。
大胆さ.PNG

原語は「パッレーシア」、新約では31回。使徒の働きでは5回でそのうちの3回は4章にあります(4:13, 29, 31)。意味としては以下の通り。

(1) 遠慮なく、自由に、大胆に語ること
(2) 確信を持つ、大胆な態度に出るー公然と、おおっぴらに、公衆の目を引くように、自由に、はっきりと、あからさまに、はばかることなく、臆することなく。


2. 「脅す」しかできないユダヤ当局

  • ペテロとヨハネの大胆さに対して、ユダヤ当局は帰す言葉がありませんでした。そのため、彼らは二人を権威を見せつけて「脅す」ことしかできませんでした。この「脅す」ということばも4章では三度使われています。

(1) 17節 動詞「アペイレオー」απειλέω
「これ以上民の間に広がらないために、今後たせれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく「戒めよう」(「脅迫しよう」)
(2) 21節 動詞「プロスアペイレオー」προσαπειλέω
「そこで、彼らはふたりを「さらにおどした」うえで、釈放した。」
(3) 29節 名詞「アペイレー」απειλή
「主よ。いま彼らの「脅かし」をご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」

  • 言う事を聞かない子どもに対して、親は最後の手段として、親の権威をもって子どもを「脅す」ことがよくあります。これと同じことが起こっているのです。しかし使徒たちは、ユダヤ当局の「脅迫」「脅し」に屈することなく、むしろより大胆に神のみことばを語らせてくださいと祈っていることは驚くべきことです。ここに「聖霊に満たされている」姿があります。私たちも大いに学ぶ必要があります。いつの時代にも、主に逆らって騒ぎ立つこの世の権威筋がいるということは、すでに詩篇2篇にも記されています。それは自分たちを守るために騒ぎ立つのですが、皮肉にも、結果的には神の権威をより強くあかしさせるための道具となってしまうのです。

2013.1.31


a:7446 t:5 y:5

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional