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聖書的な瞑想について

6. 聖書的な瞑想について

はじめに

  • 今日、瞑想がいろいろな領域で流行っています。瞑想についての理解も、またその方法も様々です。瞑想とは祈りの一種ですが、聖書における瞑想とはどんな祈りを意味しているのか、そのことを理解しておくことが必要です。詩篇の多くは瞑想の産物と言えます。その詩篇が瞑想することをどのように記しているかを調べてみることは有益です。その方法として、詩篇77篇から四つの瞑想用語を取り上げて、その意味するところを検討して見たいと思います。実に、詩篇77篇は瞑想用語の宝庫なのです。四つの瞑想用語が相補的に織りなされているのです。

1. 「思い起こす」(ザーハル)

  • 詩篇77篇には「思い起こす」という動詞が旧約の神の民にとって、「思い起こす」とは、昔なされた神のみわざを一つひとつ思い出し、心に呼び起こす行為でした。申命記では、イスラエルの第二世代の者たちに対して、繰り返し、繰り返し、エジプトにおいて、あるいは40年間の荒野の生活において、神がなされた偉大なみわざと主が良くしてくださったすべてのことを「思い起こす」ことを命じています。
  • 新約の時代に生きるキリスト者も、旧約の民と同様に、神の奇しいみわざを「思い起こす」必要がありますが、旧約の民と異なる点は、主イエスが「わたしを覚えてこれを行ないなさい」と命じられた主の晩餐(聖餐)です。イエス・キリストの十字架の贖いを決して忘れてはなりません。主イエス・キリストの十字架の出来事を「思い起こす」のは、聖餐式の時だけではありません。毎日のことです。イエスの十字架の血潮によって、私たちは罪を赦され、神に受け入れられている者であることをいつも「思い起こす」必要があります。十字架のないイエスではなく、十字架につけられたイエスを「思い起こす」ことです。このことは重要です。そしていつも主に対しての感謝を忘れないことが、新約時代に生きる者たちの「思い起こし」なのです。

2. 「思い返す」(ハーシャヴ)

  • これは自分を吟味することを意味します。自分がしたことや決断が、果たして神のみこころにかなっていたかどうかを吟味すること、これが「思い返す」と訳されたハーシャヴの意味するところです。人が自分の過去を考えるならば、人に対して悪さを図ったり、人を陥れることを考えたりしたことは一度や二度ではなかったと思います。自分のそうした悪い面を思い返して、静かに反省する時を持つことは、私たちがより良い人生を歩むために必要なことです。

3. 「思いを巡らす」(ハーガー)

  • 詩篇1篇3節で「口ずさむ」とも訳されていることばです。牛が四つの胃で約10時間かけて草を噛み、反芻するように、時間をかけて自分のうちに熟成させることです。神のみおしえや神がなされたことの意味を短絡的に理解しようとせず、酒や味噌などを寝かせるように、思考の中で咀嚼し、熟考、熟成させることを意味します。

4. 「思いを潜める」 「( 自分の心と)語りあう」 「静かに考える」 (いずれも、スィーアッハ)

  • スィーアッハは自分としっかりと向き合うことです。自分の心にある様々な問い(なぜ、どうして、いつまで)に答えを見出そうとする行為です。時には、自分の現実に向き合うことに疲れ、呻くこともあり得ます。詩篇77篇の作者は、安易な慰めを拒絶しながらも、自分の心と向き合っています。その中で神に対する消極的な結論は、自分のたましいを引き上げるどころか、自分に対する神の態度が変わってしまったのだと結論付けてしまいます。しかし、それでは自分のたましいを建て上げることはできません。それゆえ再び、自分と向き合いながら、神の視点からものごとを考えるようになります。結果としては、自分には分からないことがあることを受容したときに、作者の苦しみは解決されていきます。その受容は「神は聖です」との告白に見られます。私たちの目には道はなくても、道は必ず「水(海)の中にある」ことを作者が確信した時、作者の「叫び」は結果的に聞かれたのです(77:1)。その間、神は沈黙しておられました。

2010.6.26


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