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義の太陽の翼には癒やしがある

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63. 義の太陽の翼には癒やしがある(衣の房にでも)

【聖書箇所】マタイの福音書14章34~36節

ベレーシート

ゲネサレの地.GIF

●イェシュアと弟子たちは、ガリラヤの宣教の拠点であるカペナウムではなく、ガリラヤ湖の北西岸の陸地である「ゲネサレ」(「ゲネーサレト」Γεννησαρέτ、「ギネーサル」גִּנֵּיסַר、ないしは、「ギノーサール」גִּנּוֹסָר)という場所に着いたとあります。そこは、グーグルの地図でも分かるように、平地のある場所で、聖書に初めて、そして後にも先にも一度だけ登場する場所です。ところが、そこに住む人々はイェシュアの存在に気づいたのです。わずか3節しかない記述ですが、そこで何が起こったのかをマタイは記しています。マタイがこの出来事をどんな意図で記したのでしょうか。その地で癒された人々の信仰が迷信的なものであったのか、それとも御国についての大切なメッセージがそこに隠されているのかどうか、それを考えてみたいと思います。タイトルの「義の太陽の翼には癒やしがある」の意味は最後に分かります。まず今回のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書14章34~36節
34 それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。
35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、
36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

●ここにはイェシュアの言動も、弟子たちの言動も、不思議と一切書かれていません。記されているのは、ゲネサレの地一帯の人々と多くの病人たちの信仰だけで、イェシュアの衣の房にさわってみな癒やされたということだけなのです。

1. コンテキスト(文脈)

●今回の聖書箇所(14章34~36節)を理解する上で重要なことは、前後の文脈です。このテキストは「五千人の給食」と「水上歩行」の奇蹟の後に置かれていること。そして、15章1~11節にあるパリサイ人と律法学者たちとの論議の中で、「神のことば(トーラー)を自分たちの言い伝えのために無にしてしまった」というイェシュアの叱責と関連づけて考えなければなりません。前後関係を見るなら、御国において人々を生かすのは神のことばであり、それを与えるのは神の御子であるイェシュア・メシアしかないということ。長い時間をかけて培われてきた伝統的な人間の解釈ではなく、神のことばである「トーラー」なのだということが強調されている文脈のただ中に置かれているということです。

●そうした文脈の中に置かれたテキストであることを念頭に置きつつ、よく観察してみるなら、ある特徴が見えてきます。今回注目したいことは、ゲネサレの人々が、御国の民の型となっているということです。それは、御国の「いたるところ、くまなく、すべての人、例外なく、だれでも」に施される神の救いの十全性、あるいはいやしの完全性です。

●今回の聖書箇所(14章34~36節)を理解する上で重要なことは、前後の文脈です。このテキストは「五千人の給食」と「水上歩行」の奇蹟の後に置かれていること。そして、15章1~11節にあるパリサイ人と律法学者たちとの論議の中で、「神のことば(トーラー)を自分たちの言い伝えのために無にしてしまった」というイェシュアの叱責と関連づけて考えなければなりません。前後関係を見るなら、御国において人々を生かすのは神のことばであり、それを与えるのは神の御子であるイェシュア・メシアしかないということ。長い時間をかけて培われてきた伝統的な人間の解釈ではなく、神のことばである「トーラー」なのだということが強調されている文脈のただ中に置かれているということです。

●そうした文脈の中に置かれたテキストであることを念頭に置きつつ、よく観察してみるなら、ある特徴が見えてきます。今回注目したいことは、ゲネサレの人々が、御国の民の型となっているということです。それは、御国の「いたるところ、くまなく、すべての人、例外なく、だれでも」に施される神の救いの十全性、あるいはいやしの完全性です。

2. 御国における神の恵みの十全性

●もう一度、テキストを読んでみたいと思います。

35 その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、
36 せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

●原文のギリシア語で見てみると、ゲネサレの人々がより鮮明にあらわされています。

35そのところの人々は、イェシュアだとはっきりわかったので、その付近一帯に使いを送った。すると、彼らは病気をかかえているすべての人々をイェシュアのところに連れて来た。
36そして、彼らはせめて房だけにでもさわらせてくだるようにと彼に懇願した。そして、さわった人々はだれでもすっかり癒やされた

(1)「はっきりわかった」

●ゲネサレの地の人々は「イエスだと気づいた」あります。なんとなく「わかったので、気づいたので」(「ギノースコー」γινώσκω)という意味ではなく、原文では、前置詞「エピ」(ἐπι)のついた「エピギノースコー」(ἐπιγινώσκω)が使われていて、「はっきりとわかって」(ἐπιγινώσκω)を意味します。これは、エレミヤの「新しい契約」にある約束、「彼らがみな、・・わたしを知るようになる」という預言が成就することを預言的に示しています。「見よ、その時代が来る」とは、キリストの再臨の時です。

(2) 「付近一帯に」

●同時に、ゲネサレの人々は、「周辺の地域にくまなく知らせた」とあります。原文は「その付近一帯に使いを送った」ですが、この「くまなく」とか「一帯」の原語が全体を表す「ホロス」(ὅλος)です。

(3) 「すべての病人」

●「それは病気をかかえているすべての人々をイェシュアのところに連れて来た」とあります。病気をかかえているすべて (「パース」πᾶς)の人々です。その人々をイェシュアのところに連れて来たということです。これはイェシュアや弟子たちがしたことではなくて、ゲネサレに住む人たちがしたことです。つまり、このゲネサレに住む人々のしていることが尋常ではない、まさに預言的行為なのです。まさに、「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ 24:14)という預言の成就を示唆していると言えます。

(4) 「さわった人たちはみな」

●「みな癒やされた」というフレーズにある「みな」と訳されている語彙は「ホソス」(ὅσος)で、イェシュアの衣の房にさわった人々はだれでも、例外なく、もれなくというニュアンスです。

(5) 「癒やされた」

●「癒やされた」と訳された語彙は、実は「すっかり癒やされた」という意味の「ディアソーゾー」(διασῴζω)が使われ、ここの箇所にしか使われていません。一般的な「癒す」の語彙は「ソーゾー」(σῴζω)ですが、ここの「ディアソーゾー」(διασῴζω)は「完全な癒し」、「完全な救い」を意味します。それはキリストを信じる者が新しいからだを与えられることで、健全な霊のからだが与えられるだけでなく、一切の病からも解放されるからに他なりません。

●ギリシア語の「ソーゾー」(σῴζω)には、「癒やす」という意味の他に「救う」という意味があります。このように、ギリシア語では「救い」も「癒やし」も同じ語彙ですが、ヘブル語にすると二つの語彙になります。「救う」は「ヤーシャ」(יָשַׁע)で、「癒やす」は「ラーファー」(רָפָא)です。意味としては同義なのです。ちなみに、その名詞である「救い」は「イェシューアー」(יְשׁוּעָה)と「テシューアー」(תְּשׁוּעָה)、「癒やし」は「マルペー」(מַרְפֵּא)です。

3. 衣の房にさわる(触れる)とは

●マタイの福音書にイェシュアの衣の房をさわって癒やされた人がいました。それは「長血をわずらっている女」(9:20~22)です。

【新改訳2017】マタイの福音書9章20~22節
20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた
21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
すると、その時から彼女は癒やされた

●彼女が12年間わずらっていたことから、「12」はイスラエルを象徴しているものとして解釈しました。しかし今回のように、イェシュアのもとに連れて来られた病人が、彼の衣の房にさわることで、「みな癒やされた」ということは、イスラエルも異邦人も区別なく、だれでも、例外なく、癒されることを示していると考えられます。その癒しをもたらしたのは、イェシュアの衣の房にさわったことによるものです。

●「さわる」「触れる」を意味する語彙に、「センガノー」(θιγγάνω)と「ハプトー」(ἅπτω)の二つの語彙があります。前者は「つかむな、味わうな、さわるな」といった「さわる」で、単に「手に触れる」ことを意味しますが、後者の「ハプトー」は「しっかりと掴むこと、親密に触れること」、また「信仰をもってさわった」ことを意味します。今回の場合は後者です。長血の女もそのようなニュアンスでイェシュアの後ろからしっかりとその衣の房を掴んだ人でした。ですから、イェシュアは振り向いて、彼女を見て、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。すると、その時から彼女は癒やされたのです。

(1) 「衣の房」

●「衣の房」について、民数記15章に次のような記述があります。

【新改訳2017】民数記15章38~39節
38 イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅(「カーナーフ」כָּנָף)に房(「ツィーツィット」צִיצִת)を作り、その隅(כָּנָף)の房(צִיצִת)に青いひも(「ケティール」פְּתִיל)を付けるように言え。(原文には「裾」という言葉はなく、意訳です。)
39 その房(צִיצִת)はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。
40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

●これを見ると分かるように、旧約では衣の「房」をヘブル語で「ツィーツィット」(צִיצִת)とも言い、新約では「カーナーフ」(כָּנָף)とも訳されています。いずれも衣の裾の四隅にあるものを言うのです。神は、イスラエルの民に対して「代々にわたり、着物のすその四隅に房を作り、その隅の房に青いひもをつけるように」と指示されました。この目的は、イスラエルの民がそれを見ることで、「主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため」であり、「神の聖なるものとなるため」でした。それは神の律法(トーラー)を思い起こし、一人ひとりの心に刻み込むための「恵みの手段としてのしるし」だったのです。ところがイェシュアが来られた時代には、衣の房は社会的身分の象徴の意味も帯び、裕福な身分の人であればあるほど派手なデザインの房をつけるようになりました。あるパリサイ人の飾りの房は、非常に長く、込み入ったデザインで、地面を引きずるほどであったとも言われています。こうした見せびらかしを、イェシュアは「人に見せるため・・・・衣の房(צִיצִת)を長くしたりする」(マタイ23:5)ことを責めておられます。

●長血の女やゲネサレの地の病人たちが、衣の房にでもさわらせてやってくださいとイェシュアに懇願したことは、人々がイェシュアのうちに神の聖なるものがあることを信じたからであり、それに触ることはひとつの預言的行為と言えます。なぜなら、イェシュアの衣の房に関して、マラキ書4章1~2節に次のような終末預言があるからです。

(2) 義の太陽の翼に癒やしがある

【新改訳2017】マラキ書4章1~2節
1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は言われる──
2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。

●この箇所のどこにイェシュアの衣の房に触れることで癒やしがあるという預言があるのでしょうか。このマラキの預言は、「見よ、その日が来る」ではじまる終わりの日の預言です。その日には、主に対して「高ぶる者」「悪を行う者」たちの運命は、完全に焼き尽くされ、根も枝も残されないという完全なさばきです。しかし逆に、「主の名を恐れる者(=主を信じる者)」の上には「義の太陽」が昇り、その翼による「癒やし」(「マルペー」מַרְפֵּא)がなされるのです。

●「義の太陽」とはメシアを表わす比喩的表現で、イェシュアを指しています。聖書ではこの箇所にしか使われていません。そして、「その翼」(「カーナーフ」כָּנָף)に癒やし(「マルぺー」מַרְפֵּא)があると預言されています。「義の太陽の翼」とは、「メシアなるイェシュアの衣の房」を意味するのです。そしてその衣の房に癒やしがあると預言されているのです。「ある」と訳された動詞は「ヤーツァー」(יָצָא)が使われており、メシアの衣の房からいやしの力が「出て行く」という意味です。しかも預言的完了形になっており、やがて必ずそのようになるという意味です。ですから、今回のゲネサレの地の病の人々が、イェシュアの衣の房に触ってすっかりいやされたということは、必ずしも迷信的なことではなく、確実に、その日が来ることを約束しているのです。その証拠に長血の女だけではなく、衣の房にさわった人たちはみな癒やされたとあるとおりです。これはやがて御国においてこうなるという預言的デモンストレーションなのです。

ベアハリート 

●3節分という今回の極めて短いテキスト、飛ばして次へ進みたい気持ちをじっと抑えながら取り組んでみました。ゲネサレという地、しかもそこはある目的が最初からあって渡って行ったというのではなく、一晩中、嵐に翻弄されながら行き着いた地です。ところがそこにイェシュアに「気づいた人々」がいたのです。「衣の房にでも」という信仰をもった人々によって、御国の奥義が引き出され、垣間見せられたと言えます。これから、生けるトーラーであるイェシュアと人間の言い伝えのために神のことばを無にしていたパリサイ人や律法学者たちとの戦いはより一層激しく深刻になっていきます。それだけに、今回の箇所は、マラキ書の「義の太陽の翼に癒やしがある」という大いなる希望を私たちに抱かせてくれる箇所なのではないでしょうか。      

2019.10.27


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