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罪のためのいけにえ(贖罪の献げ物)

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

4. 罪のためのいけにえ(贖罪の献げ物)

ベレーシート

  • 祭壇にささげる第四のささげ物は、「罪のためのいけにえ」です。新共同訳では「罪のためのいけにえ」、口語訳は「罪祭」フランシスコ会訳は「償罪祭」、岩波訳は「浄罪の供犠」と訳しています。原語は「ハッタート」(חַטָּאת)で、その語源は動詞の「ハーター」(חָטָא)に由来しています。動詞の「ハーター」は「罪を犯す、的をはずす、目的を見失う、罪に陥る」という意味で、ギリシア語では「ハマルタノー」(ἁμαρτάνω)に当たります。
  • ちなみに、第五の「罪過のためのいけにえ」は、新共同訳で「賠償の献げ物」、岩波訳は「償いの供犠」、フランシスコ会訳は「償過祭」、口語訳は「愆祭」(「愆」は「咎」と同義、過ち、過失を意味します)です。ヘブル語は「アーシャーム」(אָשָׁם)で、語源の動詞「アーシャム」(אָשַׁם)は「罪を犯す、有罪となる、刑罰を受ける」の意味です。
  • 「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」は、いずれも、いけにえによって良心から罪を取り除く(=罪が赦される)ことで、神との関係を回復させるという明確な意図と目的があります。「罪のためのいけにえ」はその罪を犯した者の身分によって取り扱いが異なりますが、「罪過のためのいけにえ」の場合は身分に関係ありません。それは常に個人の罪に関係があります。いけにえとなる動物も、「罪過のためのいけにえ」(5:14~6:7)の場合は傷のない「雄羊」(「アイル」אַיִל)と定まっています。「罪過のためのいけにえ」は、「罪のためのいけにえ」の一変種という見方もできますが、自分の犯した罪に対する償いと補償が求められます。他に「罪のためのいけにえ」と異なる点は、「罪のためのいけにえ」の血が祭壇の土台に注がれるのに対して、「罪過のためのいけにえ」の血は、「全焼のいけにえ」と「和解のいけにえ」と同様に、祭壇の周囲に注ぎかけられるということです。
  • 今回は「罪のためのいけにえ」(4:1~5:13)について注目したいと思います。

1. 「罪のためのいけにえ」の諸規定

  • すでに述べたように、「罪のためのいけにえ」はその罪を犯した者の身分と経済状況によって取り扱いが異なりますが、他のささげ物に見られる要素を多分に含んでいるので、「ささげ物」の代表という位置づけをもっています。他の「ささげ物」が連続してささげられたとしても、この「罪のためのいけにえ」がまず最初に執行されます。それでは以下で、「罪のためのいけにえ」をささげる四種類の人々について順に見て行きます。

(1) 「油注がれた祭司」(=大祭司のこと)が罪を犯した場合

①ささげるいけにえは、傷のない若い雄牛。
②雄牛の頭に手を按(お)いてそれを屠る(つまり、身代わりの死)。そして自らその血を取り、「会見の天幕(幕屋)」にそれを持って入って、聖所と至聖所を隔てている垂れ幕の前にその血を七たび振りかける。また香壇の四隅にある角にその血を塗る。さらに残った血の全部を祭壇の土台に注ぐ。
③雄牛の脂肪の全部を祭壇の上で焼いて煙にする。
④雄牛の皮、肉、頭と足、内臓と汚物の一切を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出して、そこでたきぎの火で焼く。


●「油注がれた祭司」とは、ここでは「大祭司」のことを意味します。レビ記では4回出てきますが(4:5, 16/6:22)、なぜ大祭司の罪が最初に置かれているのでしょうか。それは責任が最も重いからだと言えます。大祭司が罪を犯した場合、その影響は計り知れません。そのために、徹底的な贖いがなされる必要があるのです。

●「全焼のいけにえ」の場合は、皮は祭司のものとなりましたが、「罪のためのいけにえ」の場合には、皮は宿営の外で焼かれました。ちなみに「和解のいけにえ」の場合には、「皮」は奉献者のものとなりました。「罪のためのいけにえ」の場合、祭壇の上で焼かれる指定された部分以外はすべて宿営の外で焼かれました(レビ4:12/8:17/9:11/16:27)。ヘブル書13章10節に「私たちには一つの祭壇があります」と記されていますが、ここでの「一つの祭壇」とは、幕屋の「宿営の外」、あるいはエルサレムの「門の外」であるゴルゴタを意味し、イェシュアの十字架とその血潮を示唆しています。民数記19章2~3節にある「罪の贖いのささげもの」としての「赤毛の雌牛」も、宿営の外でほふられています。

●垂れ幕の前でその血を「七たび振りかける」とありますが、なぜ「七たび」なのでしょうか。それは「七」という数が完全数だからです。つまり、徹底的に、完全に、罪が贖われた事を意味します。そしてそれは奉献者に完全な魂の安息を与えることを保証するのです。それによって、奉献者は何ら責められることなく、咎められることなく、臆することなく、大胆に神に近づくことができるのです。その安息の保証こそ「七たび」が意味していることです。

●また、「罪のためのいけにえ」の血だけが祭壇の土台に注がれます。それは「罪の赦し」(贖い)の土台が完全に血によっていることを表しています。

(2) イスラエルの全会衆が罪を犯した場合

①この場合には、会衆の長老たちが罪のためのいけにえとなる若い雄牛の頭に手を按(お)き、それを屠ります。
②そのあとは「油注がれた祭司」(大祭司)が自分の時と同様の手順で行ない、会衆のために贖いをすることで、彼らの罪は赦されるのです。さらに大祭司はその雄牛を宿営の外に運び出して、それを焼きます。

(3) 「上に立つ者」が罪を犯した場合

①「上に立つ者」は、ヘブル語の「ナースィー」(נָשִׂיא)で「権力者」である「君主」「王」「族長」を意味します。
② いけにえは、傷のない「雄やぎ」で、その頭に手を按き、自らそれを屠ります。
③ 祭司はその血を取り、祭壇の角にそれを塗り、その血は祭壇の土台に注がれます。脂肪の全部は祭壇の上で焼かれて煙にしなければなりません。それによってその人の罪が赦されるのです。


●「上に立つ人」の「罪のためのいけにえ」は「雄やぎ」であることが特徴です。

(4) 一般の人々のひとりが罪を犯した場合

①ある個人が罪を犯した場合、「罪のためのいけにえ」は、傷のない「雌やぎ」です。
②もし、いけにえが「雌やぎ」ではなく「子羊」を連れて来る場合には、傷のない「雌羊」でなければなりません。
③貧しい場合には、山鳩二羽、あるいは家鳩のひな二羽でも可能。
④それも用意できなければ、十分の一エパの小麦粉でも可能。ただし、油を加えたり、乳香を添えたりしてはならないこと。このささげ物の場合、残りは祭司のものとなります。
⑤あとは、他の場合と同様の手順です。

(5) 重要な補足

  • もう一度、4章2節に戻って、この「罪のためのいけにえ」の重要な点について補足しておきたいと思います。

【新改訳改訂第3版】レビ記4章2節
「イスラエル人に告げて言え。もし人が、【主】がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯しその一つでも行った場合、・・・

【新共同訳】イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である。


●ここで重要なことは、「あやまって」罪を犯すことです。「過って」主の戒めに違反することです。過失による罪が語られています。つまり、意図的に犯したのではない罪、気づかずに犯した罪の贖いのことが語られています。ところが、「故意に罪を犯す者」はそうはいきません。それは「神を冒涜する者」であり、「神のことばを侮る」背信的行為であって、その者は民の間から断ち切られるのです(民数記15:31)。イェシュアも「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:29)と言われました。

●使徒パウロは次のように述べています。
【新改訳改訂第3版】Ⅰテモテ 1章13節
「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」
これが過失の罪です。とはいえ、パウロはこの過失によって多くの者を迫害し、そのためにいのちを落とした者も少なくなかったかもしれませんが、「知らないでしたこと」だったのです。ですから、彼はイェシュアの贖いによって赦されることができたのです。もしパウロが依然と神に敵対し、神を故意にあなどるような態度であったなら、決して赦される道はないのです。


2. 「罪のためのいけにえ」が象徴していること

  • 「罪のためのいけにえ」をささげた者は、いけにえによる贖い(身代わり)によって、その者の罪が「赦される」ということです。
  • 「赦す」という動詞の初出箇所は、出エジプト記34章9節で、罪を犯したイスラエルの民を主が赦す(「サーラハ」סָלַח)という形で使われています。しかし、このレビ記においては、この動詞が使われている箇所(少なくとも「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」が扱われている箇所)はすべて「赦される(た)」という受動態(「ニスラハ」נִסְלַח)が使われています。以下を参照(レビ4:20, 26, 31, 35/5:10, 13, 16, 18, 28)。
  • すべての祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらによって罪を完全に除くことは決してできません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげてくださいました。その一つのささげ物によって、聖なる者とされる人々を、永遠に全うされたのです。「全うされた」とは罪を思い出すことはしないということで、完全に赦されたということです。ですから、もはや、罪のためのささげ物は無用となったのです(ヘブル10:10~12, 14, 17~18参照)。

1.
イェシュアの十字架の血で私は赦され
御神の恵みにより いのちを得ました
2.
イェシュアの十字架の血で私は覆われ
御神の御手にふれて いやしを得ました
3.
イェシュアの十字架の血で私は隠され
御神の愛の中に 住まいを得ました


だから今たたえます 勝利の小羊を
尊い主の血潮で 私は救われた


●【新改訳改訂第3版】使徒の働き 4章12節
この方(イェシュア)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。


2016.4.9


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