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絶大な無償の赦し

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82. 絶大な無償の赦し

【聖書箇所】マタイの福音書18章21~35節

ベレーシート

●21節以降には罪の赦しの問題が扱われていますが、これは18章の初めから続いているテーマに沿って、その締めくくりとして記されています。簡単にそのテーマを見てみると、弟子たちがイェシュアのところに来て、「天の御国ではだれが一番偉いのですか」と尋ねました。イェシュアは一人の子どもを呼び寄せ、「この子どものように、自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」と答えられました。また、「だれでも、このような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れる」ということ。さらに、「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせたり、軽んじたりしないように気をつけなさい」とも命じられました。言うまでもなく、この「わたしを信じるこの小さい者たち」とはイェシュアの弟子たち(兄弟たち)のことです。そして、その兄弟があなたに対して罪を犯した場合、見て見ぬふりをしないで、その兄弟を得るために忠告すべきことが語られています。このように、「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではない」というのが、18章を貫いているテーマです。その流れの中で、兄弟間に起こる罪の赦しの問題が今回のテキストで扱われているのです。赦しの問題は日常茶飯事のことであり、御国の民とされた私たち(クリスチャン)にとっては、選択科目ではなく、必修科目と言えます。

●ペテロの質問がその問題の発端となっています。

【新改訳2017】マタイの福音書18章21~22節
21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

●イスラエル、および教会という共同体において、ある兄弟(姉妹)が自分に対して罪を犯した時に、どのような態度を取ればよいのかということが問題となっています。ペテロは質問の中で、兄弟が私に対して罪を犯した場合、赦すべきだということは分かっていました。彼の質問の意図は何度まで赦すべきか、ということでした。当時のユダヤ教ラビたちが教えていたのは、赦しは三度まででした。その根拠は明確ではありませんが、以下の聖句が考えられます。

【新改訳2017】ヨブ記 33章29~30節
29 見よ、このすべてのことを神は行われる。二度も三度も、人に対して。
30人のたましいを滅びの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。

●この聖句はエリフが語ったことばですが、神との正しい関係を回復させる神の救済行為として、「二度も三度も」とあります。ラビたちが赦しの限界は三度までと解釈したのに対し、ペテロが「七回まででしょうか」と言ったことは大変驚くべきことですが、大言壮語癖のあるペテロらしい発想でもあったのです。しかし、イェシュアの答えはペテロの予想をはるかに超えるものでした。22節には「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」とあります。「七回を七十倍するまで」とはどういう意味でしょうか。「七回の七十倍」は「七十七倍」とも解釈できるようです。神に背いたカインの系列にレメクという人がいますが、聖書はその彼について次のように記しています。

【新改訳2017】創世記4章23~24節
23 レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。
私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。
24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」

●ここには、神に背くレメクの恐るべき姿が記されています。それはおそらく恐れからくる自己防衛のための復讐・報復の現われです。イェシュアはそうした復讐に対して、逆に、「七十七倍」、「七回の七十倍」の赦しを語ったものと思われます。しかしその数はあくまでも限界数を表わしています。つまり、ペテロの「何度まででしょうか」という質問に答えるために語ったにすぎません。むしろ、天の御国における神の赦しは、限界のない絶大なものであることを、イェシュアはたとえ話を通して語ったのです。まず、そのたとえ話の前半部分を読んでみましょう。

1. 神のあわれみー無償の赦しー

【新改訳2017】マタイの福音書18章23~27節
23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

●ここで信じられないほどの負債(借金)をかかえた家来が、王によって一切の負債が免除されたことが記されています。このたとえの「王」とは神のことです。25節では、王が「主君」と訳されています(原文では「ホ・キュリオス」ὁ κύριοςとなっています)。「家来」とは「デューロス」(δοῦλος)で、これは奴隷(しもべ)とも訳されますが、主君に仕える身分を示すための語彙としてここで使われているので、一般的な意味での最下級の「奴隷」とは異なる意味で使われています。一義的には、神の民イスラエルを意味していると思われますが、広い意味では主に属する異邦人の私たち(クリスチャン)も含まれています。

●話は、王である主君が家来たち(複数)と「清算」(口語訳「決算」、新共同訳「決済」)することから始まります。それは収入と支出で、帳尻がぴったり合うかどうかを調べることです。清算が始まると一万タラントの借りのある家来(単数)が王のところに引き連れて来られました。ここで聖書は、人間の罪を負債(借金、債務)にたとえています。負債と罪のどの点が似ているのでしょうか。

●まず、負債(借金、債務)には、時が来ると返さなければならないという責任があります。それが道理であり、正しいことです。罪も同様に、私たちが、神の関係において返すべき、あるいは果たすべき責任があることを明らかにしているという点で似ています。そして、その責任が果たされていない状態があるとすれば、それが罪なのです。果たすべき責任とは、私たち人間が創造者である神によって造られた存在であるという事実に基づいています。ですから、当然のように、私たちは神に栄光を帰し、賛美をささげ、感謝しなければなりません。また神のみこころに従って生きるという責任があるのです。もし、私たちが「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です」(ヤコブ4:17)とあります。神からいのちを与えられ、神に生かされているにもかかわらず、そのことに一切感謝もささげず、神のみこころに従って生きることもしていないという負債があるとすれば、この負債は、私たちが考える以上に、神の目には大きいのです。冷静に考えるなら、私たちはこれまで数限りなく、神に対して果たすべき責任を果たさずに負債を積み上げてきた者ではないでしょうか。清算の時に負債(借り)は必ず返さなければならない責任があるように、罪も、神の前に清算されなければならないときが来るのです。

●また、私たちに与えられているいのち、能力、時間、金銭、からだなど、すべてが神から借りたものにすぎません。それを自分勝手に使っているとすれば、それは「盗み」に当たります。マラキ書3章8節で神はイスラエルの民に言っています。「あなたがたはわたしのものを盗んでいる」と。すると民は「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」と尋ねています。それに対し「十分の一と奉納物においてだ」と主は語っています。「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる」と神は言われたのです。神から与えられたものを神のために使うことをせずに、自分のために使っていたのです。ですから、「盗んでいる」と言われているのです。その負債はどんどん増えるばかりで、もしその負債に対して清算が迫られたとしたら、一体どうなることでしょうか。

●今回のテキストのたとえでは、1万タラントの負債のある家来が連れて来られた、とあります。この負債がどのくらいの額かと言えば、当時の人が一日働いて得る額が1デナリに相当し、1タラントは6000デナリに相当します。その1万倍が1万タラントなのです。分かりやすくするために、もし仮に、一日1デナリが1万円の収入だとすると、1タラントは6000デナリですから、1タラントは1万円×6000=6000万円となります。そして1万タラントはその1万倍ですから、6千億円となります。これは大変な額です。返済はとても不可能です。にもかかわらず、「主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた」のです。その家来は、「ひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った」とあります。「拝し」は「プロスキュネオー」(προσκυνέω)の未完了形で「繰り返し拝む」という意味です。家来の「もう少し待ってください」というのは、「私のために猶予してください、忍耐してください」という「マクロスュメオー」(μακροθυμέω)のアオリスト命令形で、相手の決心を促す命令形です。必死になって懇願する様子が伝わってきます。「そうすればすべてお返しします」と言っていますが、このことばはその場限りの嘘です。とても自分で返せるような額ではなかったのです。

●ところで、このたとえの最も重要な箇所が27節です。それは、「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し負債を免除してやった」ということばです。「かわいそうに思って」と訳された「スプランクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)ということばは、神のあわれみを表わす語彙で、このことばが使われている箇所には必ず〔同情+行動〕が現わされているのです。同情だけならだれにでもできますが、行動が伴うとは限りません。しかし神のあわれみは同情だけでなく、そのあとに必ず行動が伴うのです。ここでの神のあわれみは、「赦し」、すなわち、「負債を免除する」という形で表されました。つまり「無償の赦し」です。損害を受けるのは、なんと神の側です。痛みを受けるのは実に負債のある者ではなく神ご自身です。実際、この負債は神の御子イェシュアの十字架の死という形で清算される(された)のです。つまり、すべての負債を、神はご自身の御子イェシュアのいのちで支払って帳消しにして下さったのです。ゆえに、イェシュアを信じる者は、すべての負債が免除され、無償の赦しが得られるのです。ここに、神の大いなるあわれみがあります。

●私たちはこれを決して軽く考えてはなりません。「かわいそうに思う」という神の「スプランクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)、それをヘブル語にすると、「イェヘムー・メエー」(יֶהֱמוּ מְעֵי)となります。つまり、ヘブル語で表すには二つの語彙を必要とするということです。その一つは「はらわた」を意味する名詞「メーエ」(מֵעֶה)、もう一つは「痛む」を意味する動詞「ハーマー」(הָָמָה)です。この二つの語彙で「はらわたが痛む」という意味になります。ちなみに、このヘブル語が使われている聖書の箇所を見ておきたいと思います。その箇所はエレミヤ書31章20節とイザヤ書63章15節です。この二つはいずれも、「終わりの日」の、イスラエルについて預言されている箇所です。

①【新改訳2017】エレミヤ書 31章20節
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば──

②【新改訳2017】イザヤ書 63章15節
どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。

●上の聖句にあるエレミヤ書31章20節の「わたしのはらわたは彼のためにわななき」とイザヤ書63章15節の「たぎる思い」と訳されているそれぞれの箇所に、「はらわた」を意味する「メーエ」(מֵעֶה)と「痛む」を意味する「ハーマー」(הָָמָה)が共通して使われているのです。エレミヤ書では「終わりの日」における神の思いとして語られているのに対し、イザヤ書では「終わりの日」の大患難の中にある「イスラエルの残りの者たち」のために祈る預言者の言葉として記されています。それは「私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」という悲痛の祈りです。ユダヤ人たちは、反キリストによる大患難から逃れるためにエドムの地であるボツラに身を隠しますが、神は祈りに答えて、イスラエルの残りの者たちに「恵みと嘆願の霊」を注ぎます。そのことによって、彼らはかつて自分たちが十字架にかけて殺したイェシュアこそが、神に遣わされたメシアであることに霊の目が開かれます。同時に、彼らはイスラエルに対する罪(負債)がイェシュアの十字架の死によって完全に帳消しにされていたことをも知らされることで、「激しく泣く」(つまり、悔い改める)のです。聖書はそのときが必ず来ることを聖書は預言しています。

●詩篇103篇に「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」とあります。この詩篇は自分に向かって呼びかけています。なぜ、自分のたましい、あるいは自分自身に向かって呼びかける必要があるのでしょうか。それは、主が良くしてくださったことを忘れてしまうという危険があるからです。私たちはすぐに主の恵みを忘れてしまう者です。恨み、つらみ、人からされたひどい事はいつまでも忘れず覚えていても、神の祝福はすぐに忘れてしまう。 神の恵みに狎(な)れてしまう者です。ですから、作者は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と自分に向かって言う必要があったのです。

●神に対する負債というものは、私たちが自発的に気づくというものではありません。鏡なしには自分の顔が見えないのと同様に、神に対する負債がどれほどのものであるかは自分では気が付かないものです。私たちがそれに気が付くきっかけは、人が自分に対して罪を犯した場合にその人を赦す、つまり、罪を帳消しにすることを神から迫られることを通してなのです。それゆえ、このたとえ話には後半があるのです。

2. 赦された者の責任

【新改訳2017】マタイの福音書18章28~35節
28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

●話の後半は、すべての負債を免除された(帳消しにされた)家来が王のところから出て行って、「自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った」所から始まります。「仲間」(「スンデューロス」σύνδουλος)とありますから、同じ王に仕えている家来です。その者に彼は「出会った」とあります。「出会った」と訳されている「ユーリスコー」(εὑρίσκω)という動詞は「見つける」という意味です。ですから、たまたま偶然に出会ったということではなく、「捜して見つけた」というニュアンスなのです。なぜなら、その者には百デナリを貸していたからです。そして、1万タラントの負債を免除された家来は、自分から百デナリを借りた仲間を捕まえて首を絞めて、借金を返せと迫りました。「捕まえて首を絞め」とは「はがい絞めにして、窒息させてものを言えなくする」というニュアンスです。きわめて残忍な取り扱いをしたことが分かります。百デナリを借りた者が、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願しましたが、「彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ」のです。「承知せず」と訳されたことばは未完了形です。ギリシア語の未完了形は継続的な行為を示すことから、仲間が何度も繰り返し頼んでいるにもかかわらず、承知しなかったことを意味します。決して赦さないという極めて残忍な態度です。

●百デナリは1万タラントと比べるなら、わずか60万分の一です。牢に放り込んだなら、働いて返済することもできなくなってしまいます。私たちは他人の弱さや落ち度を責めるときは痛烈ですが、自分のことに関してはひどく寛大な者です。人間の醜さをまざまざと見せつけられるようで、嫌な気持ちになりますが、これが私たちの現実ではないでしょうか。

3. 獄吏たちに引き渡したとは

●31節で、牢に放り込まれた者の仲間たちが事の成り行きを見て、非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話しました。「話しました」(「ディアサフェオー」διασαφέω)という語は、単に「話す」ということではなく、「詳しく説明する」という意味です。新改訳2017では「一部始終を話した」と訳しています。それは仲間に対するこの取り扱いが極めて悲惨であったからです。

32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

●33節の「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」は、赦すことが当然の義務であることを言っています。仲間を赦さなかった家来に対して、主君(「キュリオス」κύριος)は怒って(激怒して)、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡したとあります。「負債をすべて返すまで」とは、すべて返すことは始めから不可能なのですから、「負債をすべて返すまで」とは、王のあわれみ深い取り扱いがすべて取り消されたこととイコールであることを意味します。それだけでなく、「獄吏たちに引き渡した」とあります。これはどういう意味でしょうか。「獄吏」とはここにしか使われていない語彙です。意味としては「牢で拷問する看守たち」を意味します。「引き渡す」も拷問という刑に処せられることを意味しています。このことはイェシュアが山上の説教で語っていたことです。

【新改訳2017】マタイの福音書 7章2 節
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、
自分が量るその秤で量り与えられるのです。


ベアハリート

●最後の35節、「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」が、このたとえの結論です。この家来のようでなくても、人の罪を赦せないことは、獄吏に引き渡されたようなもので、心が苦しくなって牢獄にいるような気持ちにあることは、クリスチャンであるなら誰でも知っていることです。そして、最後には、どうしたら自分に対する人の罪を赦すことができるのかという問題に直面します。その解決は、神の絶大な無償の赦しが自分にも注がれていることを心に留める他に術はないのです。

【新改訳2017】マタイの福音書6章12節
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

●これは「主の祈り」の一部分です。文語訳では「我らに負債(おいめ)のある者を我らが赦すごとく、我らの負債(おいめ)をも赦したまえ」となっていましたが、これでは順序が逆です。私たちの負い目が赦されることが先で、この赦しがあることで、私たちに負い目のある人を赦すことができるのです。ですから、私たちの負い目が赦されていることを繰り返し確信する必要があるのです。以下、赦しに関する聖句です。赦しについての使徒パウロの記述を挙げておきます。

①【新改訳2017】エペソ人への手紙 1章7節
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

②【新改訳2017】コロサイ人への手紙 1章14節
この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

③【新改訳2017】エペソ人への手紙 4章32節
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

④【新改訳2017】コロサイ人への手紙 3章13節
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

●赦すことは、自分だけでなく、相手を完全にいやし、変えることのできる神の大いなる力です。天の御国はその赦しの力が完全に解き放たれる世界です。今はその赦しの力が今は完全ではなくても、主を信じる者たちの中にすでに働いているのです。そのことを信じながら、主が来られる時を待ち望みたいと思います。

2020.8.2
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