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終わりの日についての幻 (1)啓示前

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11. 終わりの日についての幻 (1) 啓示前

【聖書箇所】 10章1節~21節

ベレーシート

  • 10章~12章までは、実際には一つの幻をダニエルが見たことについて述べています。10章はその序(導入するための備え)というべきものであり、11章は幻とその解釈であり、12章は結語となっています。この3章はひとつのまとまったものとして書かれています。特に、10章1節のみことばは、10~12章の要約的序文であり、かつ結論とも言えます。

1. 10章1節の語彙の意味

  • 10章1節がこれから記される事柄(10:2~12:13)の結論だとすれば、そこに示されていることばの意味を理解しておく必要があります。

【新改訳改訂第3版】
ペルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。
【口語訳】
ペルシャの王クロスの第三年に、ベルテシャザルと名づけられたダニエルに、一つの言葉が啓示されたが、その言葉は真実であり、大いなる戦いを意味するものであった。彼はその言葉に心を留め、その幻を悟った。
【新共同訳】
ペルシアの王キュロスの治世第三年のことである。ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルに一つの言葉が啓示された。この言葉は真実であり、理解するのは非常に困難であったが、幻のうちに、ダニエルに説明が与えられた。
【岩波訳】
ペルシアの王クロスの第三年に、またの名をベルテシャツァルというダニエルに一つの言葉が啓示された。 その言葉は真実で、難解であったが、彼はその言葉を悟った。彼は幻によって悟る地からを得たのである。

(1)「ペルシアの王クロスの第三年」
ダニエルはクロス王の治世第一年(B.C.536)まで宮殿で仕えました(ダニ1:21)。10~12章の幻が与えられたのは、ダニエルが退職してから二年目で、クロス王の治世三年(B.C.534~533)です。クロス王の治世元年に、ユダヤ人のエルサレムヘの帰還が始まり、神の民の70年捕囚は終わりを告げました。しかしダニエルはそのままペルシアにとどまったのです。その頃のダニエルの年齢はおそらく90歳前後と考えられます。彼はエルサレムに帰還しませんでしたが、自分が置かれたところで神からの大切な事柄が示されたのです。

(2)「一つの言葉が啓示された」
「言葉」と訳されたヘブル語は名詞「ダーヴァール」(דָּבָר)の単数形です。単に、ことばという意味だけでなく、出来事、約束、記録を意味します。神が語られたことばは必ず出来事となるからです。

新改訳改訂第3版 イザヤ書55章
10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしのことば(דָּבָר)も、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

  • 神の語られることばの真意はそのことばが開かれなくては正しく理解することができません。そのために神ご自身がその意味を明らかにされることを「啓示する」と言います。「啓示する」というヘブル語は「ガーラー」(גָּלָה)です。裸になること、(隠されていることが)表わされること、(秘密が)明らかになること、(やがて起こることが)示されることなどを意味します。この語彙は旧約全体では196回使われていますが、ダニエル書では8回(2:19, 22, 28, 29, 30, 47, 47/10:1)使われています。

(3)「そのことばは真実」
「そのことば」とは「啓示されたことば(出来事)」です。しかもそれが「真実」であるということは、必ず、間違いなく、確実に起こることを意味しています。

(4) 「そのことばは、・・大きないくさのことであった」
啓示された一つのことばの内容は、新改訳、および口語訳では「大いなるいくさ」「大いなる戦い」のことであると訳されていますが、新共同訳では「理解するのは非常に困難」、岩波訳では「難解」と訳しています。原語は「ツァーヴァー・ガードール」(צָבָא גָדוֹל)です。

  • 「大いなる戦い」とは、天における神とサタンとの戦いです。「ツァーヴァー」(צָבָא)は「軍勢、軍団」を意味することばです。ヘブル語では普通、戦争を表わすのには「ミルハーマー」(מִלְחָמָה)が使われます(その使用頻度は318回) 。しかしここでは「戦いに出る、戦う」」を意味する動詞「ツァーヴァー」(צָבָא)が使われています。ちなみに、この名詞の複数が「ツェヴァーオート」(צְבָאוֹת) で「万軍」と訳されます。つまり、ここで啓示されるのは、天における軍勢であり、天における霊的な戦いです。神の軍勢の力とサタンの軍勢の力との対決です。これはヨハネの黙示録でも、「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の御使いたちは、竜と戦った」(12:7)という形で出てきます。「ミカエル」(מִיכָאֵל)とは「だれが神のようであろうか」という意味の名前です。サタンの意図は自分が神のようになろうと願っただけでなく、また人をも誘惑して神のようにならせようとしました。しかし、ミカエルの名前が意味するように、「だれが神のようであろうか」という問いかけは、サタンに対して「決してそうはいかない」というメッセージを発しているのです。

    【新改訳2017】ダニエル書10章21節
    しかし、真理の書に記されていることを、あなたに知らせよう。私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはいない。


2. 天的存在者としての「人の子」の幻

  • 10章には、ダニエルに対してふたりの天的存在者が登場しています。ひとりは「亜麻布の衣を着たひとりの人」で(5~6節)、「人の姿を取った者」(16節)、「人間のように見える者」(18節)で、ダニエルのくちびるに触れた(16節)存在であり、語りかけている存在でもあります(18~21節)。しかしもうひとりは、ダニエルのひざと手にゆさぶっただけでなく、「神に愛されている人ダニエルよ」と呼びかけ、「恐れるな」と励まし、「終わりの日に神の民に起こる事を悟るために来た」と告げている存在です(10〜14節)。解釈としては、いずれも御使いと考えることもできますが、前者を受肉前のイエス・キリスト、後者が告知の御使いガブリエルとも考えることができます。
  • ちなみに、14節の「終わりの日」と訳されている原語は「アハリート・ハッヤーミーム」(אַחֲרִית הַיָּמִים)で、旧約聖書においては、第一義的には「後の日」という意味で用いられています。
  • 前者の「亜麻布の衣を着たひとりの人」は、そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであったと記されています(10:6)。この姿は、ヨハネの黙示録1章13~16節、および2章18節と酷似しています。
  • 「人の子」という表現は、ダニエル自身に対しても使われていますが、ダニエル7章13節では「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」とあります。主イエスはご自分のことをメシアとは言わずに、「人の子」と呼んでいます。実はこの「人の子」という表現こそメシア的表現なのです。

3. 霊的な事柄に集中するという今日的課題

  • ここダニエル書10章では「彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた」(ダニ10:1後半)とあるように、ダニエルは天上で起こる霊的戦いの事柄を理解することができたのです。それは、ダニエルが三週間の断食と祈りをもって神に祈り、霊的に集中する期間を持ったからでした。これは、老年期が深い霊性と啓示の時となり得るということの良い実例と言えます。
  • 10章における重要な霊的教訓として「断食」を取り上げたいと思います。

    【新改訳改訂第3版】
    2 そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。
    3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。

  • 「断食」とは「食を断つ」と書きますから、肉的なさまざまな欲求を制限することを意味します。しかし、積極的な意味としては、霊的な事柄に集中することを意味します。そのための多くの時間が必要なのです。
  • 現代は「高度刺激社会」です。常に何かの刺激を求めることのできる社会、退屈しないように自分をセッティングすることが可能な時代です。しかし大切な事柄を知り、それを手に入れることは多くの集中した時間が必要です。人によってそれは異なりますが、多くの時間とお金を無駄に費やしてしまうような誘惑が満ちています。そうした誘惑に対処するための自己訓練の一つが「断食」です。
  • 食事をすることを忘れて、何かに集中し、没頭することができるといのは一つの能力です。その能力は訓練によって培われます。優先順位を定めてその優先的な事をなし終えるまでは、他のことをしないという訓練を日々の生活の中で持つことです。例えば、日々のデボーションがそれです。神のみことばを読み、味わうこと、瞑想すること、しかもそれをノートに書き留めること(文書化すること)。これがきちんとできている人は意外と少ないのではないかと思います。私もこの訓練を日々繰り返しています。そのようにして神を知ることを追い求めています。聖書はただ通読していれば分かるようになるというものでは決してありません。通読だけで分かるというのは傲慢です。聖書の他の箇所と関連づけて学ぶまでには多くの時間と忍耐が必要です。より大切な事柄、より重い事柄のために、多くの時間と精力と財をささげるならば、その労苦は必ず報われると信じます。
  • また、みことばの瞑想は個人的であると同時に、教会の共同体的取り組みであると信じます。ですから、工夫しながら、知恵をいただいて、多くの時間を主にささげて、みことばを瞑想して主のみことばに聞くことは、神のいのちを汲み上げる上で不可欠な、教会の重要な今日的課題であり、しかも、難事業、大事業なのです。


2013.8.27


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