****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第二次伝道旅行 (6) アテネ

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28. 第二次伝道旅行 (6) アテネ

【聖書箇所】 17章16節~34節

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ベレーシート

  • ベレヤの兄弟たちはパウロをユダヤ人から身を守るために、航路でアテネへ連れていきました。そこでパウロはシラスとテモテを待つことにしました。アテネでも使徒パウロはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)ヘ行き、これまでと同様イエスがキリストであることを論じました。
  • しかし、アテネでパウロはアレオバゴス(議会)で話す機会が与えられました。パウロがそこで異邦人相手に何をどのように語ったのか、それは興味深い問題です。ユダヤ的背景のない異邦人に対して、しかもユダヤ的価値観とは異なるギリシア的価値観の中心的な都市で、福音をどのようにアプローチしたのかに注目したいと思います。

1. 「知られない神に」と刻まれた祭壇

  • アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て、パウロは「心に憤りを感じた」とあります。原文では「彼の霊が彼の中でしきりにいきりたった」という表現になっています。柳生訳はここを「悲しみと怒りに心底から揺さぶられる思いであった」としています。
  • なぜパウロが偶像を見て「心に憤りを感じた」のでしょうか。それは偶像の背後に働く悪霊たちが、人の心を支配し、人々に恐れを抱かせていたからです。偶像は単なる目に見えるモノではなく、その背後に悪霊たちがいて、偶像を拝む人々の心を支配しているのです。パウロはそのことに聖なる憤りを感じながら、会堂や広場で毎日人々と論じたのでした。そして幸いにも、アレオパゴスという所(議会)で弁明する機会が与えられたのでした。

2. パウロの異邦人向け伝道メッセージ

  • これまでのパウロのメッセージはユダヤ的背景から、イエスがキリストであることを論証すること主眼としてきました。なぜなら、イエスこそメシア(キリスト)であり、主ともされたことが初代教会の福音であり、この福音が人々を救うものであったからです。しかしここアテネのアレオパデスでは全く異なるアプローチを用いています。
  • そのアプローチはユダヤ人にも、そして異邦人にも共通のもの、つまり、「死への恐れ」(あるいは「生存と防衛を求める心」)という人間の実存的な心理を背景にしています。それを物語っているのは、多くの偶像の中にあった「知られない神に」と刻まれた祭壇の存在でした。人々が偶像を求める心理的背景には、人々がそれを意識しているかどうかは別として「死への恐れ」があるからです。もし「あなたがたの信じている偶像をすぐに捨てなさい。でなければ、滅びます」というような高飛車な言い方をしたとすれば、おそらく聞く人々の耳は磯のあわびのようにすぐに心を閉ざしたに違いありません。そうではなく、パウロはむしろ彼らに「宗教心にあつい方々だとみております」というほめことばを用いながら(人によっては、最大の皮肉だと理解するかもしれませんが・)、穏健な語り口で語りました。
  • なぜ、「知られない神」と刻まれた祭壇があったのか、パウロはこれを材料にして、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言って話をはじめました。
  • ここでのパウロの伝道メッセージのポイント以下の通りです。

    (1) 創造者としての神(24~26節)

    あなたがたが知らずに拝んでいる神は、「天地の主」、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」であると紹介しました。アテネには「エピクロス派」や「ストア派」といった人々がいました。「エピクロス派」は無神論者であり、「ストア派」は汎神論者でした。ですから、この世界を造ったひとりの天地の主(単数)だという教えは、彼らにとって全く新しい教えだったのです。

    (2) 人間にいのちを与えた神

    天地の主は、すべての人間を造られた神であるとしました。25節には「神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった主」と声明していますが、これは創世記の1章と2章に示されている事柄です。

    (3) すべての国民、すべての歴史、すべての地を支配しておられる神

    神はひとりの人からすべての国の人々を造り出しただけでなく、地の全面に住まわせ、それぞれの決められた時代と、その住まいの境界とを定めた神であると言っています。これは、神がすべての国民、すべての歴史、すべての地を主権をもって支配しておられることを意味すると同時に、神はすべてのルーツであることを明示しています。それゆえ人が、もし神を求めることでもあるなら、すべてのルーツである神を見出すことができるのだと述べています。しかもこの神は、遠くにおられるのではなく、ひとりひとりの近くにおられるとも語っています。そして、その神の中にすべての人は生き、動き、また存在していること、そして「私たちもその子孫である」と結論づけています。それゆえ、「神を人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけないのだ」とアプローチしています。

    ここで重要なことは、この話の根拠を、聖書ではなく、アテネの人々によく知られている詩人のことばを用いていることです。これは、これまでになかったパウロの新しいアプローチです。

    (4) 悔い改めを命じている審判者としての神

    パウロの伝道メッセージの最後のポイントは、天地を造られた唯一の神は、これまで偶像礼拝する人々の無知の時代を見過ごしてこられましたが、今や、すべての人に対して悔い改めを命じているということです。神はお立てになったひとりの人により、義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからだと説得します。神がこの方を死者の中からよみがえらせることによって、その確証を示されていると語りました。

  • 「死者の復活」のことに話が及んだときに、ある者たちはあざ笑った、他の者たちは「このことについては、また聞くことにしよう」と言ったために、パウロの話は中断してしまいました。パウロは信仰の決断を求めようとしたはずです。しかしそれは保留されたかたちで終わっています。
  • 興味深いことに、パウロはこのメッセージの中で「イエス」という名前についても、最初の人「アダム」という名も使うことなく、また「神の愛や恵み」についてもなにも語っていません。すべてを創造した神がおられること、しかしその神は人間の手で造った偶像を拝んで来た無知をこれまで見逃して来られたものの、今やそれをさばかれる前に、悔い改めるよう神が命じておられるということを語りました。
  • これまで「死の不安と恐れ」を感じつつ偶像を拝んできたアテネの人々は、このパウロのメッセージを果たしてどうように理解したのでしょうか。またパウロにとって、イスラエルの物語を完全に省いたかたちでの初の異邦人対象のメッセージを、パウロ自身はどう評価したのか、気になる所です。

2013.7.4


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