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第三次伝道旅行 (5) エルサレムへの最後の旅

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35. 第三次伝道旅行 (5) エルサレムへの最後の旅

【聖書箇所】 21章1節~17節

画像の説明

ベレーシート

  • パウロの最後のエルサレム行き(A.D.57の春)には、ルカが同行しているためか、その帰路についてかなり詳しく書かれています。特に、重要なことはパウロの一行がシリアについて以降、エルサレムでパウロの身に起こることが2度にわたって記されています。

    (1) ツロ
    ツロの弟子たちが「御霊に示されて、エルサレムに上らぬようにと、しきりにパウロに忠告しています(21:4)。

    (2) カイザリヤ
    アガポという預言者が預言的行動ー「パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛る」ーをしながら、『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっていると預言したことから、ルカをはじめとする弟子たちは、カイザリヤの弟子たちとともに、パウロに、エルサレムには上らないようにと進言しています(21:11~12)。

  • 4節の「忠告した」と訳された原語は「語る、話す」を意味する「レゴー」(λέγω)の未完了で、「繰り返し語った」という意味です。12節の「頼んだ」と訳される原語は「懇願する」という意味の「パラカレオー」(παρακαλέω)の未完了で、やはり繰り返して懇願している様子を描いています。つまり、何度も繰り返してパウロにエルサレム行きをとどめようとしています。
  • それに対するパウロの答えが13節のことばです。今回は13節のパウロのことばを通して、パウロが苦難についてどのような構えをもっていたかを思い巡らしてみたいと思います。

1. キリストのための苦難を、いつも覚悟していたパウロ

使徒21章13節のテキスト

【新改訳改訂第3版】使 21:13
するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。
【新共同訳】
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。

  • キリストのためならば、苦難のみならず、死ぬことも「覚悟している」と語るパウロ。「覚悟している」は、副詞の「ヘトイモース」έτοίμως と動詞の「持つ」を意味する「エコー」έχωで、私には用意がある、いつも覚悟している、すでに心に備え(準備)を持っているという意味。英語ならば、I am ready. 
  • キリストのためなら、苦しみを厭わないという思いがパウロにはありました。ピリピ人への手紙1章29節でもパウロは次のように述べている。

    【新改訳】
    「あなたがたはキリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストの苦しみをも賜ったのである。」
    【柳生訳】
    「キリストを信じる喜びだけでなく、またキリストのために苦しむという特権をも与えられている。」
    【新共同訳・フランシスコ会訳】
    「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」
    【エマオ訳】
    「・・・・キリストのために苦しむことも(賜物として)与えられているからです。」

  • 「苦しむ」と訳された「パスコー」(πάσχω)は、本来、「苦痛や不快なこと」や「愉快なこと」を経験するという意味のことばです。真逆の内容に使われています。これは今日の「超やばい!!」ということばが、肯定的な意味でも、否定的な意味でも使われているのと同様です。ここでは、苦しみを受ける、苦難を経験する、ひどい扱いを受ける、邪悪な扱いを経験する、耐え忍ぶという意味で使われています。
  • 主イエスがパウロの召命について語られた箇所があります。使徒の働き9章です。「・・あの人(パウロ)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しま(パスコーπάσχω)なければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(16節)
  • 実際、パウロは最後のエルサレム行きの前に、多くの苦難を経験しています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント11章23~28節
    23 ・・・私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

  • まさに、聖書の中では記されていない使徒パウロの「苦難のカタログ」が並べ立てられています。数々の苦難は、キリストのゆえに経験したものでした。こうした苦難をパウロはどのように受け止めていたかが重要です。

2. パウロの苦難に対する考え方

  • 特にピリピ1章29節では、パウロが苦難についてどのように考えていたかを知る重要な聖句です。どのような意味において、キリストのための苦難は神の賜物、特権、恵みなのでしょうか。その理由として以下の事が考えられます。

(1) 苦難は、創造的な力を誘発する

使徒の働きには、教会が誕生し、成長していくプロセスの中で迫害という苦難を経験した。使徒ペテロも苦難の中に置かれている者たちに対して宛てた手紙の中に、次のように記されています(Ⅰペテロ4章12~14節)。

12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

(2) 苦難は、同労者や悩める人々との連帯感を養う

作家の太宰治は「優しいという字は人偏に「憂い」という字を書く。他人に対して優しくあり得るのは、自分の中に憂いを持っている人間だけだ。」と述べている。順調にうまくやって来た人はどうしても人に対して優越感を抱きやすい。そうした思いを破る経験をさせられるのが「失敗の経験」であると述べています。

失敗や苦難の経験は、相手の立場に立ってものごとを考えることを学ばせてくれる。そうした意味において、苦難の経験は神の賜物であり、恵みに成長に役立つものと言える。

(3) 苦難は、キリストの似姿を形作る

色あざやかに着色された陶器は、少なくとも3回、あるものは3回以上火で焼かれると言われます。このことは私たちがキリストの似姿へと変えられていくためにも必要な原則です。この意味においても、苦難は神の賜物と言えるのです。


2013.9.5


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