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第一次伝道旅行 (2) ピシデヤのアンテオケ

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19. 第一次伝道旅行 (2) ピシデヤのアンテオケ

【聖書箇所】 13章13節~52節

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ベレーシート

  • 第一次伝道旅行の第二回目は、ピシデヤのアンテオケでの伝道です。ここで目を引くのはパウロの説教(13:14~43)とそれに対する反応です。パウロの説教を聞いた人々は、ユダヤ人とユダヤ教に改宗した「神を恐れる人々」でした。
  • パウロの語った説教の中心は神が遣わされたイエスでした。その方はダビデに約束された方として、バプテスマのヨハネの証言する方として、また、神が死からよみがえらせた方として、しかもその復活はすでに聖書で預言されていたことを通して、すべてがイエスを証言しています。

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1. 神の歴史(His story)を語ることの重要性

  • 使徒パウロはピシデヤのアンテオケの会堂(シナゴーグ)で、奨励する機会が与えられました。そのとき、彼は神が送られた(遣わされた)イエスのこと、すなわち「救いのことば」「良い知らせ」について語りました。その内容はイスラエルの歴史の中で神が語られた約束についてであり、その約束が実現されたことを語っています。しかも実にコンパクトにまとめられたストーリです。おそらくこれはパウロが語った話の概要が記されているのだと思いますが、歴史は神の啓示と顕現の場であり、また、その実現の舞台なのです。ですから、歴史を抜きにしては神の真実をあかしすることはできません。
  • このことから、神の救いに与る者たちが神を知ることにおいて、また、これからの神のご計画において、イスラエルの歴史を知ることは選択科目ではなく、必須科目です。神の救いのご計画の終局に向かっていくこれからの時代においては、イスラエルの歴史にかかわる神の働きはますます顕著となっていきます。神の働きの場である歴史の全体像を鳥瞰的(俯瞰的)視点から理解し、把握するためには、どうしてもイスラエルの歴史を学ぶことは必須なのです。
  • 異邦人が神と出会う時にイスラエルの歴史を知っている者はいません。むしろ、自分が抱えている悩みや苦しみを通して神と出会うことが多いのです。しかし、神を信じた後で、イスラエルの歴史においてなされた神のストーリーを学ぶことなしには、信仰の種が芽生えるだけで、根を張ることはできません。イエスの語られた種まく者のたとえ話にもあるように、堅い地が柔らかくされ、種が根を張り、さらに人間の深い次元にあるところの恐れや敵の惑わしに対して勝利することによって、はじめて多くの実を結ぶことができます。特に、第二の関門である「根を張る」ためにどうしたら良いかを考えなければなりません。その最も効果的な道は、・・

(1) イスラエルの歴史をしっかりと学ぶことです。なぜなら、イスラエルの歴史は他の国の歴史とは異なり、神を知るために、また聖書を読み解いていくために避けて通れない知識だからです。もしそうした知識がなければ、簡単に教えの風に吹きまわされてしまいます。自分はユダヤ人ではなく、異邦人だから、イスラエルの歴史は学ぶ必要がないと決して思ってはなりません。地道に、辛抱強く、神の啓示の舞台であるイスラエルの歴史を学び続けることが必要です。

(2) 幼い時から「聖書物語」を聞かせて育てる

  • 子どもの頃から聖書のストーリーを聞かせて育てることです。そのためには親がそれを話したり、教えたりする力を養わなければなりません。子どもに教えることを通して、親もまた学ぶのです。これこそ詩篇127篇の「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」が意味するところです。子どもは主からの賜物です。どんな意味で賜物かと言えば、信仰の継承のために、神について共に学び合うことができ、神を深く知ることができるからです。また、教会はこのことをクリスチャンホームを建設しようと思う若者たちに繰り返し教え込まなければなりません。特に、第一世代のクリスチャン・ホームの親たちの責任は重大です。
  • 子どものころから神のストーリー(聖書物語)を知識として知っておくとは、やがて聖書全体から知恵を引き出せるような力を身に着けさせます。すべての事柄が別々の事柄ではなくて、すべてが意味をもって結びついていることを発見するようになります。それこそが「根が張る」ことであり、多くの実を結ばせていくと信じます。

2. 使徒パウロが語ったメッセージの要点

  • 使徒パウロが語ったメッセージの要点は「イエス」という方です。その方によってもたらされた二つの祝福が述べられていますが、原文ではまず最初に「よく知ってほしい」という言葉が来て、そのあとに、二つの祝福が語られています。二つの祝福とは言っても、別々の祝福ではなく、連動している救いの両面を意味しています。それは「罪の赦し」άφεσιςと「義とされること」δικαιόωです。

(1) イエスによって「罪の赦し」が与えられるという祝福

【新改訳改訂第3版】使徒13章38節
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。

  • 「罪の赦し」-「アフェシス」άφεσιςは、ルカ文書(「福音書」と「使徒の働き」)が強調していることです。ちなみに、ルカの福音書での名詞「アフェシス」は1:77/3:3/4:18/4:18/24:47の5回。動詞の「アフィエーミ」άφίημιは31回(箇所は省略)の使用頻度です。

(2) イエスによって、神の前に義とされるという祝福

【新改訳改訂第3版】使徒13章39節
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

  • 39節は、前文の後に接続詞「カイ」(και)によって結びつけられています。新改訳は原文にある「ディカイオー」δικαιόωを「解放」と訳しています。おそらくルカ文書の福音の理解に基づくものだと思いますが、この語彙の本来の意味は「義とする」という意味です。ですから、39節は「(38節;よく知ってほしい)・・・また、モーセの律法によっては義とされることのできなかったすべてのことから、信じる者はだれでも(例外なくみな)、この方によって義とされるということを」の訳の方がピンとくるかもしれません。これはやがてパウロが書簡において展開する思想だからです。
  • さて、「この方によって義とされる」ということがあるユダヤ人たちにとってはカチンと来たのです。モーセの律法を一所懸命に守って来た者たちにとっては、パウロのいう「信じる者はだれでも(例外なくみな)、この方によって義とされる」という主張は容易には受け入れがたいことだったからです。そのためにパウロたちは迫害を受けることになります。この迫害によってパウロとバルナバは「私たちは、これからは異邦人の方へ向かいます」と宣言し、異邦人伝道への契機となりました。
  • ところで、パウロが会堂でメッセージをして後、一週間後の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに会堂に集まって来ました。その中にはイエスによる良き知らせを信じた者たちがいたのです。そのことをルカは「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った」と記しています。「永遠のいのちに定められていた人たち」という表現ですが、結果論としては理解できますが、おそらくそこには神の深い秘密が隠されていて、私たちには容易に理解できない部分ではないかと思います。
  • このように、聖書には一見、矛盾と思える相反する事柄に出会うことがあります。

    たとえば、今回のように「永遠のいのちに定められいた人たち」という表現ーこれの類似した表現が他にもあります。たとえば、以下の聖句がそうです。
    「・・子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(マタイの福音書11章27節)
    「わたしを遣わした父が引き寄せられない限り、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネの福音書6章44節)

    しかし、それとは逆の表現があります。
    「主は・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロの手紙第二3章9節)
    「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

    私たちが矛盾したように見えたとしても、神の世界ではそうではないのかもしれません。


3. 重要な語彙

  • 重要な語彙をチェックしておきたいと思います。それは「約束」ということばです。日本語の聖書では大方四回この13章で見つけることが出来ますが、原語としては二回だけです。

約束ー「エパンゲリア」ἐπαγγελία promise

13:23
神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。
13:32
私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。

※使徒の働きでは、他に6回(1:4/2:33/2:39/7:17/23:21/26:6)使われています。

●現代のヘブル語聖書では「約束」という言葉に「ハヴターハー」(הַבְטָחָה)が当てられています。語源は「信頼する」を意味する「バータハ」(בָּטַח)に由来していますが、旧約では使われていない用語です。
●一般に「約束」とは他者に対して言明したことを将来において実現することを保証することですが、旧約ではそのような意味の「約束」はなく、「言う」とか「ことば」がそれを意味しています。神が「言う」(「アーマル」אָמַר)、神の「ことば」(「ダーヴァール」דָּבָר)が約束の意味を持っているからです。つまり、神が「わたしは言う」ということが、そのまま「わたしは約束する」という意味を持つので、あえて「約束する」という必要がなかったのです。神の約束には「恵み」(「ヘセド」חֶסֶד)と「真実(まこと)」(「エムーナー」אֱמוּנָה)を含んでおり、それが神の契約の基調となっているのです。「神の約束されたものを得る」ことと「永遠のいのちを得る」ことは同義です(マタイ19:16, 29)。それは、神の御子イェシュアを信じる(信頼する)ことだけです。


2013.5.2


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