窮地の中で「主の御名によって奮い立った」ダビデ
サムエル記の目次
26. 窮地の中で「主の御名によって奮い立った」ダビデ
【聖書箇所】 29章1節~30章31節
はじめに
- 詩篇23篇の結論となる最後の節に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみ(トーヴ)と恵み(ヘセド)とが私を追いかけてくる」とあります。サムエル記29章と30章は、そんな告白をしたダビデの背景を垣間見させてくれます。まさにダビデはその名前が意味するところの神に「愛される者」なのです。神に「愛されたダビデ」を知ることは、実は神を知ることでもあるのです。
- 29~30章には神による三つの逆転劇が記されています。神の助けはいつも予期せぬところからやってくるということを教えています。
1. イスラエルとの戦いに参戦しなくともよくなったダビデ
- ペリシテ人とイスラエルが全面戦争になった場合、ダビデの立場は苦境に立たせられたはずです。サウルとの戦いも予想されました。ペリシテの領主の一人アキシュのもとに身を寄せたダビデは、アキシュから絶大の信頼を得ていました。その信頼はダビデが偽って得てきたものでした。二重生活を続けてきたつけがここで試されるときが来たのです。ダビデが自らそれを回避することはできない立場(状況)にありました。
- ところが、ダビデがアキシュの信任の下でいざ参戦の構えを見せたとき、他のペリシテの領主たちからの信任を得ることはできませんでした。いつ裏切られるかもしれないという領主たちの懸念があったために戦いから排斥されたのです。そのためにダビデは自分たちの住処に引き返すことになりました。
- イスラエルとの戦いに参戦しなくてもよくなったことにダビデは内心ほっとしたはずです。全く予期しなかったことでした。ここに神の配剤を見ることができます。主の守りと導きがあったと言えます。
2. ピンチをチャンスに逆転させたダビデ
(1) 窮地に立たせられたダビデ
- ところが、ツィグラグに帰ってみると、思わぬ事態が起こっていました。それは自分も部下たちも大切にしている家族や財産がすべて奪われ、町も火で焼かれた後でした。すべてを喪失してしまったダビデとその部下たち。あまりのショックに信仰の霊は吹き飛んでしまいました。今までのすべての苦労が一瞬にして崩壊した出来事でした。このストレスにさらされた人はどんな反応を示すでしょうか。
- ダビデの場合は「非常に悩んだ」とあります(30:6)。それは部下たちを悩ませた責任だけでなく、部下たちが自分を石で撃ち殺そうと言い出したことを聞いたからです。これまで培ってきたリーダーシップとフォロアーシップ、部下たちからの厚い信頼、将来の夢と希望が消え失せて、心が怒りがダビデに向けられたからです。
(2) 主の御名によって「奮い立った」ダビデ
- 「悩んだ」と訳された原語は「ツァーラル」(צָרַר)です。詩篇23:5の「敵の前に」ある状況です。あるいは、病気を引き起こす苦しみです(Ⅱサム13:2)。うつになってもおかしくないそんな窮地の中で、ダビデは自分の神、「主によって奮い立った」のです。ここで「奮い立つ」と訳された原語は「ハーザク」(חָזַק)の強意形ヒットパエル態です。「ハーザク」」(חָזַק)の基本的な意味は「勝つ、勝利を得る、優勢になる、強くある」ですが、これが強意形のピエル態では「力づける、励ます」という意味になります。例としては、23章16節に、ヨナタンがダビデのところに来て、神の御名によって「力づけた」とあります。ここでダビデが自ら自分を励まし、力づけるという意味で「奮い立った」(encouraged himself)と訳されています。
- 自分自身を主の御名によって「奮い立たせる」ことのできたダビデ。私たちも窮地に立たされたとき、主の御名によって、あるいは主のみことばによって「奮い立たせる」ことができるならば、心の病気になることはありません。堅く立ち上がることができるのです。弱った自分の心をスイッチ・オンできるそんな精神的、霊的な力を普段から培っておく必要を思わせられます。
- ダビデは、敵の略奪隊を追うべきか、また追いつくことができるかどうか、「主に伺い」ました。そして、主は「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」との答えをもらいました。とえいえ、この時点では略奪隊がどの方向に逃げたのかは全く分かっていません。しかしダビデには確信が与えられたのです。追い詰められた危機の中で、ダビデは再度神を仰ぎました。そこからピンチをチャンスに変える思いがけない、予想もしなかったことへと導かれていくのです。これも神の配剤だったと言えると思います。
3. 主人から見放されて置き去りされたひとりの人との出会い
- 救出劇の要に、神が備えたとしか言いようのない一人の人との出会いがありました。追撃を続けるダビデとその一行は、ひとりのエジプト人を野原で見つけます。三日三晩もパンも食べず、水も飲んでいなかったこの人は、アマレクの奴隷でしたが、病気になったために、主に見捨てられ置き去りにされてしまったのでした。この人がダビデたちを略奪隊のもとに案内したのです。
- この人との出会いによって、ダビデたちは失ったすべてのものを奪い返しただけでなく、多くの分捕り物をも得たのです。
おわりに
- 失ったと思われた大切な家族や財産がなにひとつ失われなかったということも驚くべきことですが、それに加えて、敵から得た分捕り物を、参戦した者たちだけでなく、残っていた仲間にももれなく平等にそれを配分したことでダビデの指導者としての信頼はより強くなったことも神の配剤でした。こうした知恵によって、サウル王国の崩壊後、新しいダビデの時代の整えが着々となされていったのです。ダビデに対する信頼は回復され、以前にも増して強固にされたのです。これこそ、ピンチがチャンスに変えられた神の逆転劇でした。
- 私たちもダビデと同様に、神によって選ばれた存在、神に「愛される者」なのです。このアイデンティティがしっかりと建て上げられていくことを求めたいと思います。
- 神に「愛される者」としてのダビデを知らずして、トーヴな神を知ることはできないのです。
2012.7.7
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