****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

私たちは落胆しません


4. 私たちは落胆しません

【聖書箇所】Ⅱコリント書4章1~18節

べレーシート

●私たちの周りには、勇気を失い、すべてを投げ出してしまいたいと思わせる現実が何と多いことでしょう。浮き沈みが激しく、みじめな思いに陥ってしまうこともしばしばです。そしてこの失望落胆は人を選びません。むしろこの失望落胆は成功した人さえも襲います。高く登れば登るほど、そこから落ちた時の落差は大きくなります。パウロさえも「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。」(Ⅱコリント1:8)と述べています。パウロも私たちと同じ人間なのです。その同じ人間がなにゆえに「私たちは落胆しない」のか、その理由が書かれているのがこの4章なのです。

●Ⅱコリント書にはキラキラと輝くみことばが非常に多くちりばめられています。それはこの手紙が「慰めの書」と言われているように、パウロ自身が、苦しみの中で神から来る慰めに生かされたからです。今回は4章ですが、その中心聖句は何かと言うならば、それは1節の「私たちは落胆することがありません」と、16節の「私たちは落胆しません」ということばに集約できるのではないかと思います。いずれも「落胆する」ことが否定されています。主の働きに従事する者にとってこれは何と確信に満ちた宣言でしょうか。勇気づけられることばです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書 4章1節
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。

●「こういうわけで」とあります。それは2章、3章に記されているパウロたちに与えられた務め(「ディアコニア」διακονία)のゆえです。2章では「キリストの香りを放つ務め」、3章ではコリントの教会の人々に「キリストの手紙を書かせる務め」とあります。「キリストの香り」も「キリストの手紙」も、いずれも「キリストの福音」を意味しています。これは誰にでもできる務めではなく、神からその務めに仕えるための資格、すなわち「御霊に仕える者」という資格が与えられたからです。その務めは栄光ある務めなのですが、その務めは神の「あわれみを受けた」ことによるものだとしています。

●この神のあわれみは決して観念的なことでなく、神の具体的行動を伴うものです。パウロの場合、神のあわれみはアナニヤが自分のところに遣わされたことによって経験しました。この出会いは前にも述べたように、きわめて象徴的です。なぜならパウロはこの「アナニヤ」を通して教会に受け入れられただけでなく、キリストの福音を伝えるべく務めを与えられたからです。洗礼も彼から受けています。「アナニヤ」という名前はヘブル名では「ハナヌヤー」(חֲנַנְיָה)となります。これは「あわれむ」を意味する「ハーナン」(חָנַן)と、「主」を意味する「ヤー」(יָה)が組み合わさった名で、「主があわれんでくださった」という意味になります。アナニヤとの出会いはまさに神のあわれみを受けたことを意味しているのです。そのあわれみは神のご計画という偉大な務めを担わせるためでした。そのこともアナニヤを通して伝えられました。それゆえ、「私たちは(パウロのみならず他の者も含めて)、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。」と述べています。

●「私たちは落胆しません」(=「勇気を失わない」「失望落胆しない」「疲れて嫌にならない」)という表現は、新約聖書に6回使われていますが、ルカの福音書18章1節を除いてすべてパウロの特愛用語です。パウロは神のあわれみの他に挙げられる「私たちは落胆しません」という理由を述べていくのです。その理由を以下のようにしてまとめてみました。

第一の理由は「私たちは、この宝を土の器の中に入れている」から
第二の理由は「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」から
第三の理由は「一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、もたらす」から
第四の理由は「見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」から

●第二~第四の理由は、第一の理由から自然と引き起こされて来る構成になっています。つまり、「宝」が「内なる人を日々新たにさせ」、「重い永遠の栄光をもたらし」、「見えないものに目を留めさせる」のです。

1. 私たちは、この宝を器の中に入れている

(1) へブル的修辞法による強調

画像の説明 
●見事なほどに、へブル的修辞法によるパラレリズムが使われています。7節と10節と11節は同義的パラレリズムですが、7節、10節、11節そのものは総合的パラレリズム(=ある文節を次節ではそれを補足する形)となっています。さらに8節と9節は各行共に反意的パラレリズムになっています。「へブル人の中のへブル人」パウロらしい文章です。パウロは一体ここで何を強調しようとしているのでしょうか。

(2) 土の器とその中の宝

●私たちはパウロの言うように「土の器」だということです。この場合、「土の器」は複数で「土で作った数々の器」です。その器(複数)の中に「宝」を持っているということです。「宝」(「セーサウロス」θησαυρός)は単数です。これは「キリストの香り」「キリストの手紙」と同様に「キリストの福音」、あるいは「メシアの福音」「御国の福音」とも言い換えることかできますが、「宝」の意味をコンテキストに沿って見てみましょう。

【新改訳2017】Ⅱコリント書4章5~6節
5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

●「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」という表現の中に、イェシュアのうちに神を見るという偉大な思想が語られています。イェシュアが「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われたように、ここでパウロは、イェシュアをいつも見続けるならば、そこに神の栄光が私たちにも理解できるようにしてくださったのだと語っているのです。「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」こそ、土の器の「宝」と言っているのです。

●聖書の中には「器」(「セキューオス」σκεῦος)という語彙が多くあります。例えば、パウロ個人のように「選びの器」(使徒9:15)、また妻は夫よりも「弱い器」として単数で使われる場合もあれば、ユダヤ人と異邦人を「あわれみの器」(ローマ9:23)として複数で用いられることもあります。しかしここでの「土の器」は集合体としての複数です。「土の器」が複数であることから、教会の様々な肢体を意味しているかもしれません。つまり「私たち」、すなわち「土の器」とは「教会」のことで、その中にキリストの福音という宝を隠し持っているということです。単なるクリスチャン個人のことを言っているのではないということです。教会という群れ全体(集合体)のことを言っているのです。これは旧約のイスラエルが集団を意味することに似ています。したがって、ここは個人ではなく、集合体の概念で理解しなければなりません。

●「それ(宝)は、この測り知れない力が神のものであって、私たち(土の器)から出たものではないことが明らかになるためです。」とあります。「土の器」というのは、もろく、壊れやすいという意味です。その土の器の中に「測り知れない」(「ヒュペルボレー」ὑπερβολή)宝が隠されているということをパウロは強調しています。「ヒュペルボレー」(ὑπερβολή)は「極度に、はなはだしく、最高の、最も優れた」という意味で、パウロだけが使っている語彙です(8回)。「ヒュペルボレー」(ὑπερβολή)は「を~超えて」を意味する前置詞「ヒュペル」(ὑπερ)と「石を投げて届く距離」を意味する「ボレー」(βολή)との合成語で、パウロは神の世界を表すのに、とりわけ「絶大な」を意味する「ヒュペル」(ὑπερ)を好んだ人です。それをもとにパウロは独自の新しい言葉を作り出しました。

●土の器の中にある「宝」が持つ力は、神からくる「測り知れない、並外れな、絶大な、卓越した」ものなのです。それゆえ、8節の「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。」、さらに9節の「迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」となるのです。表現としては、「(・・する)。しかし・・ない」(「アッラ・ウー」ἀλλά οὐ=省略「アッルー」ἀλλ' οὐ)という強意の否定がなされています。つまり後者のことーどんなことがあっても、「窮することがない」「行き詰まることがない」「見捨てられることがない」「滅びない」―が強調されているのです。

2. パウロの「私たちは落胆しません」という宣言の根拠

●パウロの「私たちは落胆しません」(16節)という宣言の根拠、それはどこにあるのでしょうか。それはキリストにある終末的信仰にあります。これと同じ信仰の霊がなければ、お互いに励まし合い、慰めることはできません。

【新改訳2017】Ⅱコリント書4章13~14節
13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

●パウロはコリントの教会の人たちと同じ信仰の霊をもっているので、励まし合うことができることを感謝しています。その同じ信仰とは、「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っている」という信仰です。この信仰によって、パウロは三つの点で「私たちは落胆しない」と励ましています。

(1) 「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」という信仰 

●「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」というこの事実はすばらしいものです。「外なる人」というのは私たちの目に見える肉体的なものだけでなく、目に見えない肉そのものも含まれます。目に見える肉体的に限って言うなら、私たちの身体的、肉体的成長というのは、20歳になる前にピークを過ぎると言われます。私たちの脳細胞はどうでしょうか。どんなに使っても5パーセントほども使っていないと言われます。やがて年を取れば、身体のいろいろな部分に故障が出てきて、それまでできていたことも少しずつできなくなっていきます。どんなに鍛えたとしても。外なる人は否応なく衰える(=滅びる)のです。しかし「内なる人」はどうでしょうか。衰え、滅びることなく、なんと「日々新たにされている」のです。この「内なる人」というのは内向的な人という意味ではありません。その人とは「宝そのものである『キリスト』」のことです。パウロはエペソ書3章の中で次のように祈っています。

【新改訳2017】エペソ書3章14~16節
14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

●【新改訳改訂第3版】では、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」と訳されていましたが、新改訳2017訳では、「内なる人に働く御霊により」と改訳され、「あなたがた」と「内なる人」とは別人格として訳されています。「内なる⼈」とはイェシュアご自身のことを示唆しています(脚注)。つまり、あなたがたのうちに住んでいる内なる⼈、イエス・キリストに働く御霊によって、あなたがたを強めてくださるようにという祈りなのです。「内なる⼈(単数)」は私たちが強くされていくゴール(⽬標)なのです。さらにこのパウロの祈りの重要な点は、「その栄光の豊かさにしたがって」ということです。御父の栄光の豊かさの中から(少しばかり)ということではなく、「したがって」、つまりその豊かさに応じてという意味です。したがって、私たちの「内なる人」(宝なるキリスト)は、私たちのうちで日々新たにされているという信仰なのです。その信仰ゆえに、私たちは落胆しないのです。

(2) 「一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光をもたらす」という信仰

●「内なる人」に働く御霊によっても私たちは強められますが、同時に苦難を通しても、私たちの信仰を成長させられ、私たちに「重い永遠の栄光」がもたらされるのです。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」(【新改訳2017】箴言27:17)とあります。現代において、「一時の軽い苦難」と言われる葛藤とかプレッシャーということがそのまま悪であるかのように思われたり、考えられたりします。そしてそこから逃れることが良いことだと考えています。しかしそれは間違いです。私たちはどうやって自分自身が磨かれていくかと言えば、摩擦によってです。自動車は何で走るのか。「それはエンジンに決まっている」と思われるかもしれません。いいえ、どんなにすばらしいエンジンを持った車でも、それだけでは走りません。車が走るのはタイヤと地面との間に起こる摩擦によってはじめて走るのです。摩擦が起こらなければ自動車は前進もしないし、後退もできません。また右にも左にも曲がらないのです。また摩擦が起こらなければブレーキを踏んでも止まることはできません。「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」とは真理なのです。さまざまな摩擦は神がご計画を進める上においても重要であり、真理なのです。神のご計画において摩擦(苦難)のない進展はあり得ないのです。また私たちの信仰の成長のためにも、苦難は神が備えられた大切なものなのです。

●私たちの「内なる人」であるイェシュア自身も、人からあざけられ、つばを吐きかけられて、拒否され、傷付きながらも、その中で神に従い、私たちのために永遠の救いの道を開いてくださったのです。聖書はこう言っています。

【新改訳2017】ヘブル書12章2~3節
2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。

●パウロもローマ書で「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(【新改訳2017】ローマ8:18)と語っています。「今の苦難、後の栄光」―この終末的信仰によって、私たちは落胆しないのです。

(3)「見えるものにではなく、見えないものに目を留める」という信仰   

●私たちが落胆しないための最後のポイントは、「見えないものは、永遠に続く」ということ、そこに目を留めるという信仰ですが、このことは続く5章1~10節で展開されていますので、次回に回したいと思います。


脚注 「内なる人」の解釈について

●フランシスコ会訳の註には以下のように説明されています。
「内なる人間」という表現は、ローマ7章22節にも出てくるが、そこでは・・神の似姿であるという高次な面を意味している。Ⅱコリント書4章16節の「外なる人間」と「内なる人間」は、むしろⅠコリント書15章45節に述べられている「最初のアダム」と「'最後のアダム」に当たる。「内なる人間」は、キリストの内にあって新たに創造された人間(Ⅱコリント5:17)であり、今すでに復活したキリストの新しい生命にあずかって、日毎にますますキリストの生き写しに変えられており、栄光から栄光へと進んでいる人間を意味するとしています。

●つまり、「最後のアダム」であるキリスト、および「キリストの内にあって新たに創造された人間」という二つの面があるということです。


2019.2.28


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