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私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう

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5. 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう

【聖書箇所】 3章40節~66節

ベレーシート

  • 哀歌3章40節以降は、「私たち」という人称で「悔い改め」を呼びかける部分(40~47節)と、「私」という人称で主に祈り求める部分(48~66節)の二つの部分に分けられます。

1. 悔い改めの呼びかけ

  • 「人称なき存在」の声によって導かれた「悔い改めの呼びかけ」に注目することが重要です。

【新改訳改訂第3版】 哀歌3章40~41節

40 私たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。
41 私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。

  • この「悔い改めの呼びかけ」には、自分たちが神に背いて逆らったこと、それゆえに神は怒ってその罪を赦さず、容赦なくさばかれて荒廃と破滅が自分たちにもたらされたことを認めています(42~47節)。神は「悔い改める」ことをとても喜ばれます。罪なき者たちを殺し、ユダの国と民を破滅に導いたマナセ王がアッシリヤによってバビロンに連れて行かれた時に、彼はへりくだって神に祈りました。神はその祈りを聞かれて彼をエルサレムに戻されました。彼は主の宮からすべての偶像と、エルサレムに築いたすべての祭壇を取り除いて町の外に投げ捨てただけでなく、主の祭壇を築いて、民をイスラエルの神、主に仕えさせました(歴代誌第二、33章参照)。
  • しかし、ユダの民全体の悔い改めにはより多くの時間が必要とされます。なぜなら、悔い改めには、単に罪を認めるだけでなく、神のことば(教え)に従順に従う生き方の実を結ぶこと(トーラー・ライフスタイルの回復)が求められるからです。事実、シオンの娘であるエルサレムが完全に打ち壊され、亡国と捕囚の憂き目を経験したユダの民たちが、神に対する悔い改めの実を結ぶためには70年(実際は50年)の歳月が必要であることを預言者エレミヤはすでに語っていました(エレミヤ書29章)。しかし、偽預言者はわずかの「二年」と語っていたのです。

2. 悔い改めのプロセス

  • 3:40の「主のみもとに立ち返ろう」という「悔い改めの呼びかけ」の中に、そのプロセスを示す言葉、つまり「私たちの道を尋ね調べて」という表現に注目してみたいと思います。原文では「私たちは探そう/私たちの道を/そして私たちは調べよう」となっています。
  • 「道」は「デレフ」דֶרֶך、生き方を、歩みを意味する名詞です。つまり自分たちのこれまでの歩み、神の民としての歩み、生き方を意味しています。そしてそれを「尋ね調べよう」と呼びかけているのです。「尋ね調べる」は、二つの動詞から成っています。いずれも似たような意味を持っていますが、それを重ねることで意味が強調されています。
画像の説明
  • 「尋ね」(新改訳)と訳されたへブル語は「ハーファス」חָפַשׂ。旧約では23回。「探る」「捜し調べる」「尋ねる」という意味です。ここでは「自己吟味する」「(自分に)問いかける」という意味合いが強いと思います。
画像の説明
  • 「調べる」(新改訳)と訳されたヘブル語は「ハーカル」חָקַר。旧約では27回。「調べる」「味見する」「探る」という意味です。詩篇139篇1節と23節にも使われていますが、その主語(主体)は「神」です。「とこしえの道へと導かれる」ために、私を探ってくださいと祈っています。その「探り」とは、内にある本当の問題点を明らかにすることを意味します。哀歌の「調べる」という意味も同様に、自分たちの問題点を明らかにするためのものだと言えます。それには神の助けが必要です。
  • 真の「悔い改め」には、自己吟味をし、真の問題点を明らかにすることが必要です。それなしに、神との正しいかかわりを築いていくことができません。そしてこのことに気づいて、それを修正し、そして正しい道を歩くためのスタイルを築くためには、神の教えの正しい理解と時間が必要なのです。

2. 「涙を流すこと」の大切さ

  • 人称が「私たち」から「私」に代わる48節~66節には、「深い穴から御名を呼び求める」姿があります。シオンの娘(エルサレム)の破滅のために流される止むことのない「涙」が強調されています。

【新改訳改訂第3版】
48 私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、
49 私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、
50 【主】が天から見おろして、顧みてくださる時まで続く。

  • この涙は悔い改めに伴う大切な「涙」ですが、原文は「私の目は水の流れを流す」となっていて、「涙」という語彙(名詞)はありませんが、その流れは「涙」であることは確かです。それは度を越えた「苦痛をもたらす(עָלַל)涙」です。しかもその涙は「主が天から見おろして、顧みてくださる時まで続く」(3:50)とあります。
  • 使徒パウロは悔い改めと悲しみの関係を以下のように記しています。

新改訳改訂第3版 Ⅱコリント7章10~11節前半

10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。

  • ユダの民にとって、崩壊と亡国の憂き目によって流された多くの「痛みの涙」は、やがて神のトーラー・ライフスタイルを築いて、再度、エルサレムに帰還する原動力を生み出すことになるのです。その回復の喜びは詩篇の中に多くあかしされています。まさに詩篇の神髄は「嘆きからたたえへ」「嘆きから踊りへ」なのです。

2012.12.22


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