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祭司の務めの回復と十分の一の規定

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6. 祭司の務めの回復と十分の一の規定

【聖書箇所】 3章7~12節

ベレーシート

  • マラキ書3章8~12節は献金の勧めの箇所としてしばしば開かれる箇所です。この箇所から、「神のものを盗んではいけません。悔い改めて十分の一を主に献げましょう。そうすれば、主があなたがたのために天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注いでくださいます。ですから、もしうそだと思うならためしてみましょう。主がそう言っておられるのですから」と献金が勧められるわけです。
  • 申命記6章16節に「あなたがたの神、主を試みてはならない。」とあるのに、ここではわざわざ「ためしてみよ」(マラキ3:10)とチャレンジされているように思うのです。あたかも反対のことが語られているように見えますが、申命記では「試みる」(新改訳)と漢字で表記されているのに対し、マラキ書では「ためす」(新改訳)とひらがなで表記されています。これは原語が異なっていることを示唆しています。

1. 「ためす」という語彙の意味

  • マラキ書の「ためす」は「バーハン」(בָּחַן)で、申命記の「試みる」は「ナーサー」(נָסָה)です。前者の「バーハン」は「語られていることが本当かどうか、実際に調べてみるつもりでためしてみよ」というニュアンスですが、後者の「ナーサー」は、「ある者に対して、ある目的のために十分であるか、ある基準に達しているかどうかを判断するためにテストする」というニュアンスで使われています。「ナーサー」の初出箇所は有名な創世記22章1節で、アブラハムの愛を神がテストする(試験する)という箇所です。
  • マラキ書の「ためす」は、神のことばの真偽を自ら調べるという意味です。「あふれるばかりの祝福」ということばに心が向いてしまいます。「そんな祝福を与えてくれるなら、ひとつ言われるとおりにしてみようか」と賭けをするつもりで「十分の一」の献金をささげるかもしれません。もしあふれるばかりの祝福が与えられなかったなら、そのとき止めてもいいのだから・・。そんな自分勝手な、あふれるばかりの祝福をいただくための条件としての「十分の一」という理解ならば、神の本意からズレているのです。
  • ここでの本意は、神がご自身のご計画において、本来の「祭司の務めを回復しようとしておられる」ということです。個人の祝福ではなく、神のご計画とその目的を実現するための呼びかけがなされているのです。「十分の一」というささげ物はそのコンテキストの中で理解する必要があります。神は祭司たちに、本来の祭司としての務めが何かを悟らせ、その務めを全うすることを求めておられるのです。

2. 「十分の一」という規定

(1) 最初のモデルとしてのアブラハム

  • 聖書の中で最初に出てくる「十分の一」は創世記14章です。アブラムがケドルラオメルの連合軍と戦って勝った際に、いと高き神の祭司であったシャレムの王メルキゼデクがアブラムの前に現われ、「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された。」と祝福しました。この時アブラムはメルキゼデクにすべての物の十分の一を与えたのでした。何の説明もなく、「すべての物の十分の一」というささげ物が記されているのです。ちなみに、「十分の一」という語彙は名詞単数であり、神が与えてくださったことに対する一つの「ささげ物の形」(感謝、あるいは返礼)であることを意味しています。

(2) アブラハムの孫であるヤコブ

  • 次は、アブラハムの孫であるヤコブが神に約束した祈りの中で使われている例です。

【新改訳改訂第3版】創世記28章20~22節
20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、
21 無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、
22 石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」


●「必ず」と訳されているのは、「十分の一をささげる」という動詞が二重に重ねられているからです。

  • ヤコブはルズという地(この地をヤコブはベテル、すなわち「神の家」と名付けました)で一つの誓願を神に立てます。その誓願とは「神が私とともにおられて、・・してくださるなら、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」というものです。アブラムの時には「十分の一」という名詞(「マアセール」מַעֲשֵׂר)が使われていましたが、ヤコブの場合は「十分の一をささげる」という動詞(「アーサル」עָשַׂר)が使われています。
  • まだ神の律法が与えられていない時代ですが、神に対する感謝のささげものの一つの基準がすでにあったことを伺わせます。ヤコブは祖父のアブラハムと一緒に暮らしています。ですから、祖父の信仰の歩みを見て育ったと言えます。祖父アブラハムの神からの祝福と富の中に「十分の一をささげる」ということが受け継がれたと考えられます。
  • 興味深いことに、「十分の一をささげる」という動詞と「富む」という動詞は、以下のように「ごろ合わせ」(一種のダジャレ)になっています。

画像の説明

  • 人間が神にささげる「アーサル」には「スィン」(שׂ)の文字が、神が人を富ませる「アーシァル」には「シン」(שׁ)の文字が使われています。「十分の一をささげる」ところには神が富ませてくださるという真理が、これらのヘブル語動詞の中に秘められています。律法のない時代においてもそのような信仰的事実があったということを示唆しています。後に、このことが神の律法の中に盛り込まれます。とすれば、マラキ書3章にある神の「ためしてみよ」という促しは、イスラエルの父アブラハムから始まる神の祝福を思い起こせという促しだったとも言えます。イスラエルの歴史において、族長たちが祝福されて富む者となったその背景には、神から与えられたものの中から「十分の一をささげる」という既成の事実があったからです。しかしなぜ「十分の一」なのか、それについて聖書は明らかにしていません。


2015.7.18


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