****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の確かな導き(ヘブル語動詞の強意形を手繰る)

文字サイズ:

26. 神の確かな導き(ヘブル語動詞の強意形を手繰る)

【聖書箇所】 創世記 24章1節~67節

はじめに

  • 創世記24章には数多くのヘブル語動詞の強意形を見ることができます。翻訳された聖書では分かりませんが、ミルトス社出版の「ヘブライ語聖書対訳」を用いることですぐにそれを見つけることができます。それを一つ一つ手繰ってみたいと思います。そうすることで、明らかに、神の確かな導きが強調されていることを確認することができます。
  • 創世記24章は67節という長さをもって、神の導きが確かであったことを、驚きをもって記しています。このような例としては、新約聖書の使徒の働き10~11章があります。やはりそこでも66節分を使って、キリストの福音がユダヤ人から異邦人へと移行していく神の導きが丁寧にしるされています。

  • 以下は、24章にある11の強意形の箇所です。

(1)1節
「・・主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」

「祝福しておられた」(ピエル態)。1節は24章全体の結論ということができます。詩篇などでは、しばしば結論が最初に来ることがあります。24章もそういう見方ができるかもしれません。具体的な祝福としては、息子イサクの嫁探しです。信仰の継承、祝福の継承として、イサクにどのような妻を迎えるかはアブラハムにとって大きな問題であり、生涯の最後の課題ともいうべきものでした。アブラハムは信仰をもって彼を自分の生まれ故郷(といってもここではハランを意味しています。)に行って、イサクにふさわしい嫁を捜すようにと、最も信頼できるしもべであるエリエゼルに託します。そして神は、「エル・シャダイ」として、「アドナイ・イルエ」として、ご自身の栄光を現わされました。

神の導き

この課題のためには、アブラハムのしもべ(エリエゼル)とリベカ、そしてリベカの母と兄(ラバン)対する神の導きが必要でした。この三者が確かな神の導きを確信できてはじめて信仰の継承が可能となり、神の祝福の約束が成就されるからです。24章はこれら三者が神からの導きと確信される必要がありました。その神の導きの妙を以下10箇所のヘブル語動詞の強意形をたぐりながら、それを見てみたいと思います。


(2) 15節
「まだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。」

12~14節でしもべは主に祈ります。特に、14節が重要です。
【新改訳改訂第3版】
24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

ところが、祈りが終わるか終わらないかのうちに神の答えがきたのです。なんという迅速な主の導きでしょう。15節の強意形ピエル態は「終わる」という動詞「パーラー」(פָּלָה)です。その前に「まだ・・でないときに」という副詞「テレム」(טֶרֶם)がついています。リベカが水がめを肩に載せて出て来たのです。


(3) 16節
「・・彼女は泉に降りていき水がめに水を満たし、そして上がってきた。」

「満たし」(מָלֵא)ということばに、彼女が自分与えられた仕事を立派に果たそうとする姿を見ることができます。そしてしもべは彼女のところに走って行き、水を飲ませてくれるように頼みました。すると彼女はそのしもべにも、そしてらくだにも自ら進んで水を飲ませました。


(4) 18節, 20節
「すると彼女は、・・・すばやく、・・彼に飲ませた。」〔しもべのために〕(18節)
「彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ(注ぎ)、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き」〔らくだのために〕(20節)

18節に「すばやく」と訳されていますが、「急ぐ」という動詞「マーハル」(מָהַר)のピエル態です。20節では「急いで」とあります。らくだのために水を水ぶねに「あけ(注ぎ出して)」もピエル態です。頼まれもしないのに、自ら進んで、らくだのために水を飲ませようと次の行動に移っています。そんなリベカの姿をしもべはどのように見ていたでしょうか。

(4) 21節
「この人は、主が自分の旅を成功させてぐさったかどうか知ろうと、黙って彼女を見つめていた。」

「見つめていた」と訳される動詞は「シャーアー」(שָׁאָה)でこの箇所しか使われていない言葉です。意味は「驚きながら凝視する」という意味です。


(5) 22節
「らくだが水を飲み終わったとき、人は・・(尋ねた)」

そもそも、ラクダ一頭が一回に飲む水の量は80〜120リットルと言われています。そんなラクダを10頭も引き連れてエリエゼルはやってきていたのです。そのラクダのために水を飲ませるというのはどんなに重労働であったことでしょう。それを彼女はやってのけたのでした。

しもべが主に祈りはじめてから、「らくだが水を飲み終える」までの一連の動きがあります。それは神がしもべの祈りに答えて、イサクにふさわしい嫁となる人に出会わせた神の導きでした。(2)~(5) まではアブラハムのしもべに対する神の導きです


(6) 26節
「その人は、ひざまずき、主を礼拝して」(「シャーハー」שָׁחָהのヒットパエル態)

しもべはここまでの主の導きに感謝して礼拝しています。導かれたところは、主人アブラハムの兄弟ナホルの息子ベトエルの家だったのです。リベカはベトエルの娘でした。ですから、リベカはイサクの従妹に当たる人物でした。だれがそんなことを計画できたでしょう。確かに、祈りの答えとして出会ったリベカでしたが、果たしてイサクの嫁となるかどうかは次の段階の神の導きが必要でした。つまり、しもべに対する導きと同時に、リベカとその家族に対する導きが必要でした。


(7) 31節
「そこで彼(ラバン)は言った。『どうぞおいでください。主に祝福された方。・・私は家と、らくだのための場所を用意しております。』」

リベカが出会った人のことを聞いた兄のラバンはその人のことを確認しました。そしてこのしもべを歓迎したのです。動機は妹の腕輪を見たという不純なものかもしれませんが、しもべを家に迎え、らくだのためにもその場所を用意したとは大変な歓迎ぶりを示しています。そしてしもべはその家でこれまでの神の導きを話し始めました。それを聞いたリベカの父ベトエルと兄のラバンは次のように応えました。


(8) 50, 51節
「このことは【主】から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。【主】が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

ここでの強意形は「言う」と「仰せられた」です。どちらも「ダーバル」(דָּבַּר)のピエル態です。リベカの父も兄も、しもべの話を聞きながら、これが確かに神から出たことと受けとめています。リベカの父と兄が神の導きだと受けとめたことに対して、しもべはここでも主にひれ伏して礼拝しています。ここでも同じく「シャーハー」(שָׁחָה)の強意形ヒットパエル態です。


(9) 59, 60節
「そこで、彼らは・・リベカを送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。」

このように(7)~(9)まではリベカの家族の了解があり、そこに神の導きがあります。誰一人として反対する者はいませんでした。


(10) 56節
「しもべは彼らに『私が遅れないようにしてください。・・私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。』と言った。」

しもべは翌朝直ちに旅立ちたい旨を家族に伝えます。性急な申し出に家族は戸惑い、せめて一週間ほど娘と過ごしてからという願いに対して、しもべは「遅れないように」と懇願します。「遅れないように」も強意形が使われています。「善は急げ」ではありませんが、家族の神の導きという思いがゆるがないためのしもべの強い意志が現されています。最後の関門はリベカ自身です。

リベカに対する神の導きの確信を示す強意形の動詞はありません。しかし次の一言があります。「エーレーフ」(אֵלֵךְ)です。家族がしもべについて行くかどうか尋ねた時、「はい、行きます。」英語で言うならば、「Say, Yes」です。原文には「はい」ということばはありません。ただ「私は行きます」という「エーレーフ」(אֵלֵךְ)の一言だけです。見知らぬ地に、また夫となるべき人を見知らぬままに「私は行きます」という強い意志的な決断は、祭壇の上にいけにえとして身をゆだねたイサクと相通じるものがあります。

elekh

ちなみに、「エーレーフ」(אֵלֵךְ)は「歩む」の「ハーラフ」(הָלַךְ)の1人称単数未完了です。まさに、アブラハムが主の前に歩んだその「ハーラフ」(הָלַךְ)と同じです。それはアブラハムと同じ信仰の系譜につながった瞬間です。


(11) 66節
「しもべは自分がして来たことを残らずイサクに告げた。」

24章の最後の強意形は、しもべがイサクに「告げた」とする動詞「サーファル」(סָפַר)のピエル態です。「サーファル」(סָפַר)の本来の意味は「数える、数を調べる、記す」です。そのピエル動詞(強意)が「言い表す、語り伝える、語る、告白する、告げる、伝える、宣べ伝える、物語る」です。名詞形は「ソーフェール」(סֹפֵר) で「学者、書記官」を意味します。したがってニュアンスとしては、学者が事実を調べて、それを正確に把握し、整理して伝えるように、ここでは神の導きを詳細にわたって整理して報告したということです。

以上見たように、創世記24章は神の導きとはかくなるものかと納得させるすばらしいテキストです。神の導きを確信して生きるのとそうでないのとは、生き方において大きな影響があります。アブラハムから始まった神の祝福の継承と拡大いう大きな使命において、神の導きの確信はこれからのイサクとリベカの歩みに大きな益をもたらしたことと思います。すばらしい神の祝福のストーリーです。


2011.9.21


〔付録〕井戸は出会いの場所

  • アブラハムのしもべエリエゼルとリベカの出会いの場所は「井戸」(泉)でした。そして「井戸」のある場所は聖書においてさまざま出会いの場となっています。ヤコブとラケル、モーセとチッポラ、イエスとサマリヤの女がそうです。

a:9642 t:3 y:4

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional