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神の父性的教育(1)

第24日 「神の父性的教育」(1) 

神の訓練法を知ることで、落胆しない

はじめに

  • 本日の主題は、神の訓練、神の父性的教育についてです。この手紙が書かれた時代では、クリスチャンになることでさまざまな苦難を余儀なくされていました。そのために折角、信仰の道を歩み出した人々がひとりふたりと信仰から離れて行ったのです。そうした状況の中で、主にある者たちを励ますために、ヘブル人への手紙が書かれました。
  • ヘブル人への手紙では信仰による生涯をレースにたとえて、最後まで走り抜くようにと勧告しています。信仰の世界でのレースはある意味で、障害物競争です。レースの中でさまざまな障害があって、それをクリアしつつ、走ることが求められています。そこには隠された意味があるのです。障害もなく、整備された平坦な道を走るのではありません。神は深い配慮の中で、多くの困難、苦難といった障害物を置いているのです。当時のクリスチャンたちが経験した迫害もその障害の一つですが、聖書はそうした障害を神の訓練として捉えているのです。私たちもこうした視点を持つことなしに、信仰の道を走り抜くことはできません。
  • クリスチャンになったら、神の子になったら、なんの問題もなく過ごせるというようなことは決してないのです。もしそう思って信仰の道に入ったなら、遅かれ、早かれ、信仰の道から逸脱することは目に見えています。私たちの父なる神は、子となった私たちに、次から次へと新たな課題を与えて訓練し、神の子どもとして成長させていくのです。そのことを、再発見、再確認したいと思います。
  • 今朝は、ある意図をもって「口語訳聖書」でお読みします。

    5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
    6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
    7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
    8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
    9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
    10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
    11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
    12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

  • このテキストにはとても特徴的なことばが繰り返して出てきます。最後の12節を除いて、各節に一度は登場する言葉です。それは「訓練」ということばです。「訓練」、神の教育としての訓練です。ギリシャ語の動詞「パイデノー」と名詞の「パイデイア」の両方が使われています。全部で9回。同じ言葉でも、訳によって異なります。

    新改訳・・・・・・・訓練、懲らしめ
    口語訳・・・・・・・訓練
    新共同訳・・・・・・鍛練、鍛える
    回復訳・・・・・・・取り扱い、訓練
    フランシスコ会訳・・訓練

  • 口語訳を取り上げたのは、「訓練」ということばで統一されていて分かりやすかったからです。神の訓練、御父の訓練、これを忘れたり、軽んじたり、ないがしろにしてはならないというのが、今朝のメッセージです。

1. 訓練のインストラクター

  • 訓練を施されるのは誰でしょうか、そうです。私たちの「霊の父」です。私たちには両親がいて、父と母がいて、それぞれ補い合いながら、自分たちの子どもを育てていきます。父には父なりの、母には母なりの役割があります。母性的役割は子どもを包み込むことです。お袋という言い方がよくそれ表わしています。母と子とは特別な関係があって、ふとしたはずみに泣きだすと、母親が登場しない限りおさまりがつかない場面がしばしばあります。父親の割り込むすきなどほとんどありません。この特別な関係は、生後、お乳を飲ませ、常に手をかけてもらわないと生きていくことさえおぼつかない状態が一年以上も続くからです。このようにしてめいっぱい手をかけてもらうことで、そうした基盤があってはじめて人は独立した存在になれるようにプログラムされているのです。神によって周到に用意された計画によっているのです。発達の大部分を母親に依存している時期を過ぎて、いよいよひとり遊びができる時期を迎えても、母親への依存度は大きいのです。お母さんがトイレなどで姿を消したとしましょう。子どもは不安を感じます。お母さんの姿が見えなくなっても平気でいられるようになるのは、「お母さんは必ず姿を表わす」と確信できるようになってからです。時にはそれができても、またできないで不安になって泣き出してしまうということがありますが、次第に、そうした不安に打ち勝っていくなら正常な成長です。しかしそうでない場合には、大人になることができません。大人になっても母親との心理的親離れができていないと、自立した大人になっていくことはできません。
  • このように母親の役割は人との信頼関係の基本的部分を担っていると言えます。そのあとに父親的な役割が必要になってきます。父親的存在は、子どもにいろいろなことを挑戦させ、冒険させて、自立心を養うという役割です。困難なことにも立ち向かわせる訓練を与えるという役割です。こうした押し出しの訓練がないと、子どもは母親から自立していくことができません。
  • 私たちの神は『父なる神』と言いますが、人間の父性と母性を併せ持った神なのです。今朝のヘブル人の手紙12章は、父性的な面がとても強調された箇所と言えます。子どもに訓練を施す父なのです。その訓練は、ときには懲らしめであり、厳しい取り扱いであり、厳しい鞭をふるうことでもあるのです。また、あえて苦難の中に放り込むような訓練もあるのです。
  • 一昔前、「巨人の星」というアニメがありました。星一徹という父、そして星飛雄馬という長男、そして母はなく、姉の星明子が母親的存在。飛雄馬は父一徹によって、幼年時から野球のための狂気じみた英才教育を施されます。たとえば、生来右利きでありながら箸や鉛筆を左手に持たされたり、筋力増強を目的とした身体装着型器具を常に使用して生活させられたりと、父は息子の飛雄馬に数々の試練を与えました。まさに“野球の鬼”のような存在。そんな父に対して息子の飛雄馬は野球と父を恨みながら育ちます。しかし次第に、野球の素晴らしさを知り、読売ジャイアンツ入団を目指す決意をします。そしてライバルの存在によってさらに飛雄馬は飛躍していくわけです。
  • もちろん、これは架空の話です。しかし、父性的教育というものがなにかをよく表わしていると思います。そんな父親が現代滅多に見られなくなりました。というのもそんな強い父親がいなくなったということでしょうか。
  • 聖書の神は訓練を施される神です。申命記8章2~5節参照。

    8:2 あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
    8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
    8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
    8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを、知らなければならない。

  • 特に5節。「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを、知らなければならない。」とあるように、その訓練とは、荒野での「苦しみ」を通して神の民として育成するためのものでした。ここではっきりしたいことは、私たちが信仰的な自立をはかることができるように、神はご自身の子である私たちを取り扱われるということです。これは神の子である者に対する、父の必然的な育成プログラムなのです。
  • 申命記のメッセージとは、神が選んだ者に対してどこまでも真実をもって愛するということと、その無条件の選びの愛(これは母性的な愛にたとえられます)を土台としながら、神に対して、自発的、主体的、自立した信仰をもつよう決断を迫るメッセージを記したのが申命記です。ですから、8章5節のみことばもそうした視点から理解しなければなりません。つまり、そのような自立的信仰を育むための厳しさを伴う訓練なのであり、その厳しさの背後にある父の愛を理解しなければなりません。父性的な愛は、通常、母性的な愛よりも理解しにくいことなのです。
  • ちなみに、ヘブル人への手紙の中で、「主を仰ぎ見る」というキーワードの他に、もう一つのキーワードがあります。そのキーワードとは「成熟」です。「成熟を目指して進もうではないか」という勧めのことばがあります。この成熟は、父性的教育が施されることなしにはあり得ません。

2. 父性的教育を受けた旧約のモデル(ダビデとヨセフ)

  • さて、ここから、実際に神の「父性的教育を受けたモデル」を二人紹介したいと思います。一人はダビデ、もうひとりはヤコブの息子のひとりであるヨセフです。

    (1) ダビデ

    最初のモデルとして取り上げるダビデの父性的教育は、不条理な現実、自分と関わったものが殺されるという現実の中での取り扱いでした。ダビデは愛される者という意味ですが、ダビデがイスラエルの王となるという預言をサムエルを通して与えられますが、ダビデの苦難はそこからはじまります。これはダビデがやがて神の代理としての王としてふさわしく整えられるための神の訓練が始まったということです。

    サウル王の嫉みによって、自分に対する殺意が確認された後、彼は早急に身一つで放浪の旅を余儀なくされました。その逃避行、おなかが減って、アヒメレクという祭司のところに立ち寄ります。そして怪しまれないように、嘘までついて、いくつかのパンと武器を手にします。ところがそこにエドム人ドエグという人物がいて、そのやりとりを見聞きしていたのです。ドエグがなぜそこにいたのかは記されていませんが、ダビデがそこにやってきて、パンと剣をもらっていったという事実をドエグはサウル王に告げるわけです。それを聞いたサウル王は、アヒメレクの一族を(ひとりを除いて)皆殺しにします。

    反勢力となりうる疑いがある者に対して粛清するというのが普通の王のやり方です。革命を起こした指導者が最初にすることはしばしばこのことです。祭司アヒメレクはダビデが訪れたことで、自分にはなんらサウル王に対して反抗的な心がなくても、ダビデとかかわったというだけで殺されてしまいました。ドエグがどのように報告したのかは記されていませんが、本当の事実を伝えず、誤解したままを報告したのかもしれません。あるいは、ドエグの得になるような意図で伝えらたれのかもしれません。あるいは、ダビデとアヒメレクはなにかをたくらんでいるというような・・。あるいは、サウルの嫉妬が、ダビデとかかわる者はすべてこうなるという見せしめとしての行為だったのかもしれません。いずれにしても、そこには、悪を誇り、欺く者の破滅を図る舌、善よりも悪と偽りを愛する欺きの舌がありました。

    しかし、この現実はダビデに対する神の訓練であったのです。その神の訓練に対してダビデはどう受け止めたのでしょうか。詩篇52篇によればこう記されています。「神の恵みは、いつも、あるのだ。」(1節後半)と。なんという強い驚くべき確信でしょう。表面的に考えているだけならば、到底、出てこない告白です。

    さらに続いてダビデは、神を力とせず、自分の富や、自分の悪に強がる者たちが威勢を上げている現実の中でこう言います。
    「しかし、この私は、神の家におい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みにより頼む。」(8節)
    そして、極めつけは、「いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。」です。なんというダビデの霊性でしょう。不条理とも言える現実を乗り越えて、それに気落ちせず、神に失望することなく、「神の恵みは、いつも、あるのだ。」 あなたはこのように告白できますでしょうか。この告白を呼び覚ますことこそ、神のきびしい父性的な訓練の目的なのです。

    (2) ヨセフ

    神の父性的訓練を受けたもうひとりのモデルを紹介しましょう。それはヤコブが偏愛した息子ヨセフです。父ヤコブの愛した妻はレアではなく、ラケルでした。そのラケルから生まれたヨセフをヤコブは他の兄弟に勝って寵愛しました。そのことがほかの兄弟にとっては面白くありません。そのためにヨセフは兄たちの計らいによってエジプトに売られてしまいます。

    エジプトに売られたヨセフは主人のポティファルの寵愛を受け、家の管理を任されますが、ある時、ポティファルの妻は若いヨセフを誘惑しようとします。しかしヨセフはそれを断固として拒絶したために、その事実を隠ぺいしようとしたポティファルの妻の計らいで、ヨセフは牢屋に入れられてしまいます。濡れ衣を着せられてしまいます。何年もの間、事実は明白になることなく、時が過ぎていきます。

    兄たちによってエジプトに売られたこと、あたかも自分がご主人の妻を誘惑したかのように濡れ衣を着せられて牢獄に入れられたヨセフ。神はいったいどこにおられるのでしょう。ところが、そこにも神の恵みは、いつも、あったのです。神の父性的訓練が隠されていたのです。やがて、ヨセフはエジプトの王に信任されて、国の政策を実行する首相に抜擢されます。しかしそれがこのヨセフの物語の結論ではありません。ヨセフ自身が神の父性的訓練の意図を明らかにしている箇所がありますので、そこを読みたいと思います。

    その箇所は、実は、兄たちがいるカナンの地が飢饉に襲われ、エジプトに食料を求めてやってくるはめになりました。その食料を頼む相手が、かつてエジプトに売った弟のヨセフだったのです。そんなことが明らかになったあとで、ヨセフは自分に起こった苦難の意味をこう言いました。創世記45章4節以降

    4 ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
    5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

    なんという霊性でしょうか。神の父性的訓練であったとしっかりと受け止めているのです。これが信仰の成熟であり、自立なのです。この信仰をヨセフのうちに確立させるために、神はヨセフを苦難の中に放り込みました。こうした例を見ても、父性的訓練を理解することはなかなか難しいということが分かります。

⇒ここにひとつの写真があります。織物の表と裏

  • 美しい織物の表は、神のご計画ですが、その織りなす裏地はなにがおられているのかわからない状態です。私たちが神の訓練の中にあるときは、右のようにしかみえません。しかし。信仰によってのみ、あるいは後になって、左の織物をみることができます。
  • 今朝のヘブル人への手紙のテキストで、ヘブル12章11節の「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」とありますが、「平安な義の実」とはなんでしょう。平安とは単に平安という意味ではなく、神の祝福の総称を意味するシャーロームです。それが神との正しいかかわりの結実によってもたらされていることを意味する表現だと思わされます。神との正しいかかわりとは、神への信頼の姿です。取り上げたふたりのモデルにあったように、「神の恵みはいつもあるのだ」というダビデの確信、それにヨセフの「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」という受け止め方です。こういった神への信頼が私たちのうちに築かれているかが問われているのです。


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