****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の民の苦難の意味を探ること

(43) 苦難の意味を探る

(1)

  • C.E.カウマン夫人の『荒野の泉』という本があります。365日分に綴られているすぐれた霊想集の一つです。初版は1925年、日本訳は1946年です。もうすでに60年前に書かれた本ですが、あらためてこうした本が絶版になることなく重版されているということは、多くの方たちが神の慰めと励ましを求めているからだと思います。
  • カウマン夫人は1901年に宣教師として来日しました。しかし気候の違いと、あまりに緊張した働きのゆえにご主人は健康を損ない、1918年(大正7年)、帰米を余儀なくされました。それから6年もの間、カウマン夫人は看病を続けました。死と生の戦いを続けた後にご主人は永眠されましたが、その間、戦いの試練が頂点に達したころ彼女は海辺を散歩していました。「神は恵みを施すことを忘れなさったのか」と心に不信を起した時、一枚の印作物が彼女の足もとに落ちていました。彼女はそれを拾い上げて読みました。そこには「神は暴風雨の眼の中にあるその子どもを見て微笑まれる」と書かれていました。それによって彼女は神の愛のきらめきを新たに理解したのです。彼女はこう述べています。「私たちはこの試みの年年、強い愛の御手に保たれて、私たちと共にいます神の驚くべきご臨在のゆえに、私たちの砂漠を愛することを学びました」と。 このようにして『荒野の泉』(Streams in the desert)が生まれたのです。しかも驚くべきことにこうした姉妹篇があと4冊も書かれています。そのうちの1冊が「荒野の泉Ⅱ」として日本語に翻訳されています。
  • 苦しみの中にある者、失意を経験した者にとってはこうした類の本は限りない神の慰めが与えられますが、そうした経験の中にいない者にとっては、うざったい書物といえるでしょう。しかし遅かれ早かれ、神の子どもたちが荒野に置かれることは確実です。新約のヤコブの手紙では、「私の兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(1章2節)と書いています。あるクリスチャンにとっては、「苦難への召し」というものがあるのです。それは、豊かな神の愛のいのちを汲み出し、それを多くの人々に分かち与えるという尊い使命なのです。

(2)

  • 晴天の霹靂(へきれき)。人生には何が起こるか分かりません。突然の事故や災難など、思いもかけない予期せぬ出来事が私たちを襲います。それをどのように受け止めるかによって将来が変わってきます。不運でしかない場合もあるでしょう。しかしある意味では「新しい段階へのチャンス」でもあります。 
  • 聖書の中にはそうした出来事に対処した人々を見ることが出来ます。そしてそこから多くの知恵を得ることができます。旧約のダビデはまさにその代表的な人です。彼の生涯において、王となる前も、また王となってからも苦難は続きました。苦難はダビデを神の器とするための神の訓練でした。「今の苦難、後の栄光」、これは神による人の育成プログラムの原則です。また人と人との結びつきも苦難を共にすることでより深化させられます。夫婦関係にしても然りです。特に、相手の弱さや失敗を受け入れることを通して、その結びつきは深められていきます。詩篇は神と人との関係を建て上げるための最高のテキストです。生きた結びつきを求める者にとっては、そこに美味なる慰めを見出すことでしょう。

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