****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の悲しみと失望と怒りを表す「ホーイ」

文字サイズ:

補完No.5. 神の悲しみと失望と怒りを表す感嘆詞「ホーイ」

【聖書箇所】5章8~30節

ベレーシート

  • イザヤ書5章には、ぶどう畑についての主の愛の歌が記されています。ところが、主の期待に反して「酸いぶどう」(腐ったぶどう)ができてしまいました。

【新改訳2017】イザヤ書5章7節
万軍の【主】のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。

  • 上記のみことばは、5章1~2節を言い換えた箇所です。「主のぶどう畑」は全イスラエルを表す象徴です。しかしぶどう畑の中でも、「主が喜んで植えたもの」、すなわち、主の特選の最高の「ぶどうの木」は「ソーレーク」(שׂוֹרֵק)と呼ばれ、ユダ(ユダの人々)を指しています。七十人訳聖書ではこれを音記して「ソーレークのぶどうの木」と訳しています。ちなみに、普通の「ぶどうの木」はヘブル語の「ゲフェン」(גֶּפֶן)が使われます。以前、札幌に来られたメシアニック・ジューの方に会いました。その方は「ゲフェン」という名前でした。そのときは分かりませんでしたが、後でその名前が「ぶどうの木」という意味であることを知りました。ですから、「ゲフェン」と言うといつも彼のことを思い出してしまいます。
  • 閑話休題。主の期待を裏切り、失望と悲しみと怒りが込められた感嘆詞として「ああ」(新改訳第三版)、「わざわいだ」(新改訳2017)と訳される「ホーイ」(הוֹי)があります。その類義語である「オーイ」(אוֹי)も「わざわいあれ」(改訂第三版)「わざわいだ」「ああ」(2017)と訳されています。
  • 「ホーイ」(הוֹי)は旧約で51回、うちイザヤ書では21回使われています。他方の「オーイ」(אוֹי)は旧約で24回。うちイザヤ書は4回(3:9, 11/6:5/24:16)使われています。いずれも神の悲嘆と怒りが込められた感嘆詞です。
  • ちなみに、新約聖書で「わざわいだ」という語彙を使ったのはイェシュアです。マタイの福音書23章では、偽善の律法学者とパリサイ人に対してこの語彙が7回使われています(23:13, 15, 16, 23, 25, 27, 29節)。ギリシア語では「ウーアイ」(οὐαί)ですが、それをヘブル語に戻すと「オーイ」(אוֹי)となります。
  • 「わざわいだ」(「ホーイ」הוֹי)という感嘆詞の後には「わざわい」の内容が記されていますが、それと関連するように、どのような結果がもたらされるかを示す「それゆえ」と訳される「ラーヘーン」(לָכֵן)が置かれています。類似の語彙として「このゆえに」と訳される「アル・ケーン」(עַל־כֵּן)があります(25節)。「ラーヘーン」と「アル・ケーン」、いずれも同義です。原因(わざわいだ)と結果(それゆえ)の構文用語として心に留めたいところです。「わざわいだ」は罪の現実です。そして「それゆえ」とは罪に対する神のさばき(審判)を内容としています。

1. 「わざわいだ」という罪の現実

  • 5章8~30節を、6回(8, 11,18, 20, 21, 22節)登場する「ホーイ」で区切って、ユダの罪を整理すると以下のようになります。

(1) 8~10節・・・・「貪欲な民」

【新改訳2017】
8 「わざわいだ。家に家を連ね、畑に畑を隣り合わせる者たち。あなたがたは場所を残さず、自分たちだけこの地に住もうとしている。」

●他の人のことなど全く考慮せず、自分のことだけを考え、自分の財産を増やそうとするその貪欲さの罪。家や土地を買い占めて私有化しようとすることに対して、イスラエルには、それを許さない「安息の年」「ヨベルの年」の律法規定がありました。


(2) 11~17節・・・「退廃している民」

【新改訳2017】
11 わざわいだ。朝早くから強い酒を追い求め、夜が更けるまで、ぶどう酒に身を委ねる者たち。
12 彼らの酒宴には竪琴と琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは【主】のなさることに目を留めず、御手のわざを見もしない。
13 それゆえ、私の民は知識がないために捕らえ移される。その貴族たちは飢えた者となり、その民衆は渇きで干からびる。
14 それゆえ、よみは喉を広げ、果てしなく口を開ける。エルサレムの威光も、騒音も、どよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。

●朝早くから夜が更けるまで、「ぶどう酒」(強い酒)を飲み、金銭と時間を浪費している民の退廃した姿と、神のわざや神のご計画について全く関心がない姿が描かれています。「それゆえ」、神の民は「捕らえ移される」(「ガーラー」גָּלָה)とあります。「ガーラー」の本来の意味は「裸にする」「あらわにする」ですが、捕囚の意味で使われているのはこの箇所だけでなく、「ガーラー」が預言的完了形で使われています。つまり、必ず捕囚されることを意味しています。

【新改訳2017】
15 こうして人間はかがめられ、人は低くされる。高ぶる者の目も低くされる。
16 しかし、万軍の【主】はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。

●15, 16節には神の審判の究極的意味が記されています。それは神の民が悔い改めることによって「人は低くされ」ます。しかし同時に、神は悔い改めた者を高くされます。このようにして、主はさばきによってあがめられる(高くされる)ことになります。


(3) 18~19節・・・「不信の民」

【新改訳2017】
18 わざわいだ。嘘を綱として咎を引き寄せる者。車の手綱でするように、罪を引き寄せる者たち。
19 彼らは言う。「彼のすることを早くさせよ。急がせよ。それを見てみたい。イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい」と。

●18節の「嘘を綱として」とは、嘘で綱を編むことを意味します。咎と罪の車は重いが、そう簡単に切れることがないという意味。19節は神を嘲ることばです。「もし審判があると言うなら、それを急がせてみよ。そうしたら信じよう。」という意味ですが、不信の民は神のさばきを信じないだけでなく、さばく神をも信じないのです。


(4) 20節・・・・・「真理を曲げている民」

【新改訳2017】
20 わざわいだ。悪を善、善を悪と言う者たち。彼らは闇を光、光を闇とし、苦みを甘み、甘みを苦みとする。

●神から離れた民は善悪の区別を失ってしまい、光と闇、甘味と苦みの区別さえできなくなり、そのために正しく生きることができません。


(5) 21節・・・・・「自己慢心する民」

【新改訳2017】
21 わざわいだ。自分を知恵のある者と見なし、自分を悟りのある者と思い込む者たち。

●善悪の基準が神によってではなく、常に自分を中心としています。


(6) 22~23節・・・「正義を曲げている民」

【新改訳2017】
22 わざわいだ。酒を飲むことにかけては勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけては豪の者。
23 彼らは賄賂のために、悪者を正しいと宣言し、その悪者から正しい者たちの正しさを遠ざける。

●20節の善悪の区別ができなくなるだけでなく、善悪の評価さえも逆転してしまいます。


2. 「それゆえ」という神の審判

【新改訳2017】
24 それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎の中に溶けゆくように、彼らの根は腐り、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の【主】のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。
25 それゆえ、【主】の怒りはその民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打つ。山々は震え、彼らの屍は、通りで、あくたのようになる。それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている。
26 主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図される。すると見よ、それは急いで速やかに来る。

  • 24節以降では、神の民が神を見捨てたことで、神も彼らをさばきの中に捨てられることが預言的完了形の動詞で示されています。新改訳2017では、24節の「それゆえ」(「ラーヘーン」לָכֵן)も、25節の「それゆえ」(「アル・ケーン」עַל־כֵּן)も同義として訳しています。そのさばきとは、26節にあるように、「主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図される。すると見よ、それは急いで速やかに来る。」ということです。「遠く離れた国」とは、「アッシリア」のことです。25節は神のさばきの様相が語られています。にもかかわらず、神の民は自分たちの罪を悔い改めようとはしないのです。なぜなら、「それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている(現在形)。」とあるからです。

3. 神の民のかたくなさは「奥義」

  • 神の民のかたくなさは、神の御子イェシュアに対してなされる「型」でもあります。この神の民のかたくなさは奥義であることを、使徒パウロはローマ人への手紙で語っています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章
1 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。・・・

25 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
26 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。

【新改訳2017】Ⅱコリント3章14節
しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。

  • つまり、イスラエル人の一部がかたくなになるのは一時的であり、異邦人の国々についての神のご計画が完成するときに、イスラエルの心のおおいがキリスト・イェシュアによって取り除かれるのです。

2018.1.19


a:3405 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional