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神の創造の目的と神の安息

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1. 神の創造の目的と神の安息

ベレーシート

  • 今年(2016年)の「セレブレイト・スッコート」のテーマは、「主の再臨と安息」です。このテーマは、神のご計画における「再臨」と「安息」には密接な関係があることを示唆しています。なぜなら、そこには神の創造の目的が啓示されているからです。「主の再臨」によってこの地に実現する御国と「主の安息」には深いつながりがあるのです。このことを探って行くために、今回は、なぜ神は人を創造されたのか、その目的は何であったかを考えてみたいと思います。

1. なぜ神は人を創造されたのか

  • まず、創世記1章26~27節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】
26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

【新共同訳】
26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。

  • 神が人を創造するとき、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と言われました。つまり、人を創造するという計画とその目的について、天上において、神格会議がもたれたことを示唆しています。その会議では、神が望まれる「人」(「アーダーム」אָדָם)がどのような種類の人であるかが話し合われ、人は神のモデルどおりに創造されました。つまり、「神ご自身のかたち」に従って造られた存在です。このことは神の創造においてとても重要です。なぜなら神のすべての被造物の中で、「人」だけが神のかたちに創造されたからです。
  • 26節の神格会議では「われわれのかたちに似せて」と複数形で記されていますが、27節では「ご自身のかたちとして」と単数形で記されています。本来ならば、27節は「神は人を彼らのかたちとして創造された」とされるべきところです。ところが、「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。これをどのように説明できるでしょうか。神格として御父、御子、御霊の三位が存在していますが、その中で、「神のかたち」を持っておられるのは「御子」だけです。つまり、「御子」によって「われわれのかたち」が啓示されるのです。このことから、人であるアダムは「御子のかたち」に造られたことを理解できます。つまり、神は人(アダム)を創造されたとき、アダムを「御子のかたち」に創造されたということです。それを聖書は「彼らのかたちに」と言わずに、「ご自身のかたちに」と表現しています。アダムが先にあったのではなく、御子が先にあって、その後にアダムがあったのです。この秩序については、以下にあるように、聖書自身が主張しています。

【新改訳改訂第3版】ローマ 8章29節
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

  • 神のみこころは、御子を通して、御子のかたちと同じ姿をもった多くの子たちを持つことです。なぜなら、神の永遠のご計画は人によって実現するからです。では、神はその創造された人々に何を要求されるのでしょうか。それは人が地を従え地を支配することです。神は人を創造された時、人が罪を犯すように計画されたのではありません。ということは、神は初めから贖いをご計画されてはいなかったのです。もし贖いが計画されていたとするならば、人は必ず罪を犯さなければならなかったことになります。そうではなく、神の創造の計画において、神は人が地を従え、地にあるすべてのものを支配するようにと定められたのです。それが創世記1章26節に啓示されている事柄です。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(新改訳)


神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(新共同訳)

  • 26節の原文の直訳は、以下の通りです。
    そこで神は仰せられた。『われわれは造ろう・・人を・・。(接続詞「ヴェ」)+彼らは・・(地)を治めるだろう』
    原文から見えてくるのは、神が人を造ろうとした目的は、彼らが地を支配する(治める)ようになるためなのです。ここでの「彼ら」とは「人」のことです。接続詞の「ヴェ」(וְ)をどのように訳すべきかが重要です。ここでの接続詞は「そうすれば」が適訳と考えます。そのように考えるなら、「われわれは人を、われわれのかたちに似せて造ろう。そうすれば、彼らは治めるようになる。」となります。地を治めること、地を支配すること、これが人間を創造した神の目的なのです。
  • なぜ、神は人に地を支配させようとしたのでしょうか。その理由はすでに創世記1章2節に記されているのです。その箇所を見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】創世記1章2節
    地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

  • 実は、1章2節の原文の冒頭には接続詞の「ヴェ」(וְ)が置かれています。不思議なことですが、新改訳も新共同訳もその接続詞を訳出していません。1節には「初めに、神が天と地を創造した」とあります。そして2節の冒頭は、「ヴェ・ハー・アーレツ・ハーイター」(וְהָאָרֶץ הָיְתָה)となっているのです。接続詞の「ヴェ」(וְ)は、前後関係によっていかようにも訳せる語彙です。もし、この接続詞を訳出するとすれば、どんな訳語が適切でしょうか。ATD旧約聖書注解書の聖書本文(注解者によるドイツ語訳の邦訳)には、この接続詞を以下のように訳出しています。

1:1 初めに、神は天と地を創造された。
1:2 しかし地は荒涼として空虚であり、闇が原始の海の上に横たわり、神の嵐が水面の上を漂っていた。
1:3 そのとき神は言われた。「光あれ」。すると光があった。

  • 私は2節の冒頭にある接続詞を「ところが」と訳するのが適当だと考えます。つまり、「ところが地は、茫漠として何もなかった。・・」と訳すことで、なにゆえに神が人を造って地を支配させようとしたのかが説明できるからです。2節にある「地」は神の目的にかなったものではなく、光の御使いに変装できる神の敵であるサタンの支配にあったのです。「そこで」(3節の冒頭にも接続詞の「ヴェ」(וְ)が置かれています)神は、やみの中から「光」(あらかじめ定められていた神のご計画とみこころ、御旨と目的としての光)を呼び出し、その「光」に基づいて神の創造をなし、最終的には、神に造られたすべてのものが神の目には非常に良い(創世記1:31)とされる世界が創造されたのでした。その頂点に人の創造があります。
  • 神は、神に代わって人に地を支配させたかったのです。ところが、創世記3章でその目的が打ち壊される出来事が起こりました。その出来事とは、最初の地が創造される以前に神に反逆したサタンによって、人が騙され、区別すべきものを区別しなかったという罪を犯したことです。神が人を創造された目的は、地を茫漠としてしまったサタンに代わって、人が全地を従え、地を支配するという神のヴィジョンを実現するためであったのです。その神の目的は永遠に決して変わることはありません。


2. 創造と贖いとの関係 

  • 神の永遠のご計画とみこころは、「光」として表現されています。神に呼び出された「光」のうちに、神の創造のご計画とみこころ、御旨と目的が啓示されています。では、贖いとは何でしょうか。贖いとは、神が創造によって実現しようとした目的を回復することです。贖いは、本来、人間に与えられたものを回復するに過ぎません。神は贖いを通して、創造における本来の神の目的を回復させます。それゆえ、創造と贖いの関係を正しく理解する必要があります。
  • 神による贖いという罪の赦しの恵み(=神の恵みの福音)がなければ、私たちは決して神との関係を持つことはできません。もし私たちが罪の赦しという「神の恵みの福音」だけに注意を払うならば、それは神の目的の半分でしかありません。もう半分、つまり神が最初に人を造られた目的を実現させる「御国の福音」にも注意を払わなければならないのです。贖いは、私たちを神の永遠の目的に立ち戻らせてくれる神の治療法です。贖いは、私たちが罪によって失ったものを再び完全に取り戻させてくれる神の恵みです。それゆえに、贖われた人は変えられ、本来の創造の目的に到達することができるのです。それは主の再臨、すなわちメシア王国が到来する日に実現されます。そのとき私たちは、地を従え、地を支配するという神の目的をイェシュアとともに実現するのです。それは地を支配していたサタンのすべての力を覆すことを意味します。やがて私たちに新しい朽ちることのない栄光のからだが与えられるのは、地を支配するためなのです。神の目的が実現されるとき、神は満足され、神の安息が地にもたらされるのです。イェシュアの死からの復活はその確証であり、保証です。私たちはそのことにますます目が開かれる必要があります。それゆえ、主が私たちの目を開いてくださるように求めなければなりません。使徒パウロがエペソの教会の人々のために祈った祈りを思い起こしましょう。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙 1章18~19節
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、
あなたがたが知ることができますように。

  • この祈りの中にある三つの祈りの内容は、すべて神の創造の目的にかかわる事柄なのです。
    つまり、心の目がはっきり見えるようになって知るべきことは、
    ①神の召しによって与えられる望みがどのようなものか
    ②聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか
    ③信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか

です。これらの事柄に目が開かれて、それらを知ることは、まさに「地を従え、地のすべてを支配する」ための信仰的備えであり、死んだら天国に行けるといったイメージが払拭されてしまう驚くべき内容なのです。

3. 詩篇8篇における地を支配する者たち

  • ここで、地を従え、地を支配するという神のヴィジョンを見た人が描いた詩篇を味わってみたいと思います。その詩篇は第8篇です。詩篇8篇の表題のヘブル語は「ミズモール・レ・ダーヴィード」で、「ミズモール」(מִזְמוֹר)は「賛歌」を意味し、「ダビデ」(「ダーヴィド」דָוִד)という名前の前にある「レ」(לְ)は所有や所属を表わす前置詞です。したがって、「ミズモール・レ・ダーヴィード」(מִזְמוֹר לְדָוִד)で、「ダビデの賛歌」となります。しかしこの詩篇は、ダビデの信仰の目が開かれて、神の本来の創造の目的である「地を支配する」ことが完全に実現した光景を預言的に歌ったものと言えるのです。

(1) この詩篇の中心的語彙(聖句)

  • この詩篇8篇で最も重要な語彙、あるいは聖句は、以下にあるように「人」です。

    【新改訳改訂第3版】詩篇8篇4節
    人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
    人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

  • 主が心に留められる「」、主が顧みられる「人の子」を、ダビデはそれぞれ「エノーシュ」(אֱנוֹשׁ)と「ヴェン・アーダーム」(בֵן־אָדָם)という語彙で表しています。いずれも、3人称・男性・単数形です。この詩篇は新約聖書に引用され、そこで「人」と「人の子」のことをイェシュアと解釈しているために、「メシア詩篇」と呼ばれています。ですから、ここでの「人」も「人の子」も、決して一般的な「人間」を指しているのではなく、特別な「人」を指し示していることは、5~6節を見ると理解できます。そこではこう記されています。

【新改訳改訂第3版】詩篇8篇5~6節
5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。

【新共同訳】詩篇8篇6~7節
6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と
威光を冠としていただかせ
7 御手によって造られたものをすべて治めるように/
その足もとに置かれました。

  • 上記の「人」と訳されている部分はすべて人称代名詞の「彼」であり3人称男性単数です。主はその「彼」を「神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ」、またご自身の御手の多くのわざを彼に治めさせ、「万物を彼の足の下に置かれた」のです。ですから「彼」は尋常な人ではなく、特別な存在なのだと理解できます。ここでの特別な存在としての「人」は、「肉体をもった弱き存在」(「エノーシュ」אֱנוֹשׁ)であると同時に、やがては「万物をその足の下に置く存在」(「ヴェン・アーダーム」בֶן־אָדָם)でもあるのです。特に「ヴェン・アーダーム」は「最初の人アダム」「第一の人」ではなく、「最後のアダム」「第二の人」とも呼ばれています(Ⅰコリント15:45~47)。
  • メシア詩篇における「人」は必ず3人称男性単数形で表されます。たとえば、詩篇1篇におけるメシアは、「その人」(「ハーイーシュ」הָאִישׁ)で登場します。詩篇2篇では、「その人」が、①「主に油をそそがれた者」(「マシーアッハ」מַשִׁיחַ)、②「王」(「メレフ」מֶלֶךְ)、③「子」(「ベーン」בֵּן)、④「御子」(「バル」בַּר)とあるように、すべて3人称男性単数形で表されています。

(2) 詩篇8篇にある二つのフレーズ

  • 詩篇8篇には二つの特異なフレーズがあります。一つは「幼な子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられた」というフレーズ、もう一つは「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされた」というフレーズです。

①「幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられた」

  • 「幼子と乳飲み子たち」とは、イェシュアの弟子たちのことを預言的に表現した比喩的表現です。イェシュアはこの世に来られた時、多くの奇蹟を通してご自分が御国の王なるメシアであることを示そうとしました。ところが、ガリラヤに住む多くの人々はその奇蹟を見ても信じようとはしませんでした。そこでイェシュアは祈りの中でこう言ったのです。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書11章25~27節
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、
賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、
子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。

②「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされた」

  • このフレーズでは、「人」(原文では「彼」)のことを「神よりいくらか劣るもの」と表現しています。「いくらか」と訳されたことばは、「少し」「わずか」という意味と、「しばらくの間」という意味があります。ここでは後者の意味で理解すると分かりやすいです。というのは、詩篇8篇6節がヘブル人への手紙2章に引用されており、そこでは「しばらくの間」と訳されているからです。「人」、すなわちメシアなるイェシュアは、地上においてしばらくの間、神と比べるなら「不足した存在」「限定された存在」でした。充分に天の父を啓示されましたが、肉体をもっていたことが、ある意味で「限界をもっていた」という意味です。にもかかわらず、復活と昇天を経て、そしてやがて再臨されるときには、イェシュアは万物を足(原文では「両足」)の下に置く存在となります。
  • 詩篇8篇5節の「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」はイェシュアの初臨の時を表し、6節の「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」はイェシュアの再臨の時を表しているのです。

(3)「人」「人の子」に敵対する者たちの運命

  • 「人」、「人の子」という男性単数で表されるメシアの周辺には、この詩篇の場合、「敵対する者」(複数)、さらに「敵」と「復讐する者」(単数)が登場しています。単数で表される「敵」[復讐する者」とはおそらく「獣と呼ばれる反キリスト」のことを示唆していると考えられます。しかし単数の「人」「人の子」で表されるメシアは、彼と彼らを「しずめる」のです。「しずめるため」と訳された「シャーヴァー」(שָׁבָה)の不定詞は、「とりこにするため」「断ち滅ぼすため」とも訳されます。

(4) 神のご計画は人に地を支配させること

  • ダビデは神の本来のご計画と目的がこの地において実現した光景を見て、「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」(1, 9節)と感嘆の声を上げています。それは人間が造られた目的である「地を従わせ、地を支配する」という神のヴィジョンが完全に成就しているのを信仰によって見たからです。しかしいまだ、「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました」ということは実現してはいません(ヘブル2:7~8)。しかし将来、神のかたちに造られた人が、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配する」ようになるのです、神は人に「地を従え、すべての生き物を支配する」(創世記1:28)ことを必ず実現させます。そのために、最初のアダムの失敗を踏み直す「人」(第二の人、最後のアダム)が必要だったのです。


4. 神の創造の目的の成就と神の安息の関係

(1) サタンによって茫漠とされていた地を修復する必要性

  • 神の六日間の創造のみわざの中で人の創造は特別なものでした。六日間の神のすべての創造の働きの目的は、すべて人を創造することにあったのです。なぜなら、2節にある「茫漠として何もなかった地」を修復するために人が必要だったからです。神によって呼び出された光の中で修復された地こそ、創世記2章にある「エデンの園」だと考えられます。2章4~5節を注意深く観察しましょう。

【新改訳改訂第3版】創世記2章4~5節
4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたとき
5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が
地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。


  • 4節の「天と地が創造されたとき」とあるのは、創世記1章1節にある「天と地」のことです。しかし、後半の「地と天を造られたとき」とは、創世記1章2節にある「地」、つまり「茫漠として何もなかった地」を意味し、2章5節の「地には、まだ一本の野の灌木もなく」とは、修復される前の地の状態を意味しています。そしてその修復前には「土地を耕す人もいなかった」とあります。しかしその地が「エデンの園」として修復された後に、人が土のちりで形作られ、鼻から神のいのちの息を吹きかけられて「生きもの」(「ネフェシュ・ハッヤー」נֶפֶשׁ חַיָּה)とされ、すでに備えられていたエデンの園に置かれたのです。新改訳では「神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」(創世記2:8)とありますが、「東の方」と訳された原語は「ケデム」(קֶדֶם)で、方角としての「東」ではなく、「前からあった」ことを意味する語彙です。つまり、人が造られる前からあった「エデンの園」という意味です。このエデンの園はおそらく創造の第六日の前に修復され、備えられたと考えられます。主は、土の塵で造られた「人」(「ハーアーダーム」הָאָדָם)を取って、そこに置かれたのです。
  • すでに修復され、備えられていた「エデンの園」に置かれた人は、そこを「耕し」「守る」ようにされます。「耕す」ことは祭司的な務めを意味し、「守る」ことは王的な務めを意味します。このようにして最初の人は、エデンの園において、王なる祭司としての務めを与えられたのです。「耕す」とは、エデンの園のすばらしさを楽しみ、喜びをもって味わうという務めです。もう一方の「守る」という王的務めは、神が区別されたことを区別するという務めです。「王である祭司」というこの二つの務めを果たすことが、「地を従わせ、地のすべての生き物を支配する」という意味なのだと私は考えます。特に、王的務めを地において果たすためには神の権威的な力が不可欠です。なぜなら、地を茫漠とさせたやみの存在(サタン)が地を支配しようとしているからです。創世記2章では、神である主によって修復された地を従わせ、支配するために創造された人間が、修復された地であるエデンの園を「耕し、守る」という務めを負わされた人として表現されているのです。

(2) 人が地を従わせ、支配することで、はじめて神の安息が訪れる

  • 神によって創造された人が地を従わせ、地を支配することで、はじめて神のみこころは満足し、安息が訪れます。安息は働きの後に来ます。働きが完成し、完全な満足が得られて、はじめて安息がもたらされます。創世記2章1~3節で神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられました。すなわち、第七日目に、神がなさっていたすべてのわざを休まれたのです。この宣言には、神の「天と地」の創造が完全に実現した状態を示しているのです。
  • 「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされました。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」(創世記2:3)とあります。「休んだ」と訳された動詞が「シャーヴァット」(שָׁבַת)です。そしてその名詞が「シャッバット」(שַׁבַּת)、「安息、安息日」です。この「シャッバット」は天においてはすでに完成しているのですが、地においてはいまだ完成していません。なぜなら、この地が人によって支配されていないからです。それゆえ神の安息に入るという約束は、神の民のためにまだ残されているのです。
  • 2章4節の「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあるように、神の創造の目的は天におられる神においては永遠に変わりません。ですから、4節の前半までは贖いの思想はありません。ところが、4節の後半の「神である主が地と天を造られたとき、地には」という表現の中に、つまり、「天」と「地」の位置が逆転しているところに微妙な変化が見られます。というのは、神の計画においてはすでに完成されていますが、「光とやみとを区別する」(創世記1:18)ことを良しとされた神のみこころに対して、地に住む人が従順であるかどうかという未確定な部分が残されているからです。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙 4章1節
こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。


【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙 4章6節
こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており


【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙 4章9節
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。


【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙 4章11節
ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。


  • キリストの再臨によって、地は人(王であるメシアと聖徒たち)によって完全に支配されます。そのとき、神は真に休まれる(安息される)のです。神が「休まれる」とは、人が地を支配することで、神が人とともにあることを意味します。その祝福を、ダビデは、「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」と表現したのですが、この表現の真意は私たちの思いをはるかに越えたきわめて深い所にあることを思わせられます。

2016.10.2


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