****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神から来る誠実さと純粋さによる振る舞い


1. 神から来る誠実さと純粋さによる振る舞い

べレーシート

●このコリントの手紙第二の特徴は、使徒パウロがコリント教会を建て上げていく上での彼の様々な心の内を見ることができるということです。この手紙はパウロという人の心情の断面を非常によく表していると言えます。この手紙は、パウロがどのような態度でコリントの人々に接してきたかということが述べられています。パウロはこの教会の一部の人々から、計画を勝手に変更して約束を破ったとして厳しく非難され、誤解されたようです。事実、パウロのコリント訪問の計画変更と訪問延期の真の理由は相手の思いやりのためであったのですが、誤解されて、思わぬ波紋を投じる結果となったのです。

●どんな人間関係においても、一つの誤解が別の誤解を生むことによってしばしば収拾のつかない困難な状況に陥ります。ひとたび相手の言動に対して不信や疑いが起こると、誤解の扉は開いて、その傷はどんどん深くなるものです。コリントの教会は一筋縄ではいかない教会でした。党派心による分裂(これ一つだけでも大きな問題にもかかわらず)、それに加えて、不品行・偶像礼拝の問題、教会における秩序の歪み、復活を信じていない信者、福音についての理解もはっきりしない信者が大勢いて、そのような教会の人々からの誤解や批判や反対にパウロは直面したのです。パウロが当てにならないという非難は、パウロが宣べ伝えている福音そのものが当てにならないものと評価される恐れがあります。パウロはそれに対してどう対処したかを考えてみたいと思います。

●12節のみを取り上げます。なぜなら、12節は12~24節を理解する鍵句(キー・バース)だからです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書1章12節
私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント書1章12節
私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。

【新共同訳】Ⅱコリント書1章12節
わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。

●上記の12節のみことばは三つの部分から成り立っており、パウロたちの一つの生き方(振る舞い)を表わしています。

①私たちがこの世において、特に(とりわけ)あなたがたに対して (対象)
②私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていること (目標) -[同義的パラレリズム]
③神から来る純真さと誠実さをもって行動した(振る舞った) (手段)
 肉的な知恵によらず、(かえって)神の恵みをもって行動した (手段)


1. パウロの行動は「神から来る純真さと誠実さ」 

(1) 「神から来る純真さと誠実さ」

●人から批判されたり、誤解されたりした時、私たちはどうするでしょうか。懸命にとり繕ったり、自己弁護したりするのではないでしょうか。しかしパウロはそうではありませんでした。12節によれば、パウロは「私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです」と訴えています。つまり、パウロがコリント教会の人たちとの信頼関係を維持するために、常にどのような行動をしてきたかを述べています。

●「神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきた」とはどういうことでしょうか。「神から来る純真さと誠実さをもって」と訳されていますが、原文は「神の誠実と純真さをもって」とあります。誠実は「ハプロテース」(ἁπλότης)、純真さは「エイリクリネイア」(εἰλικρινείᾳ)です。これらは使徒パウロしか使っていない心情用語ともいえる語彙で、前者は8回、後者は3回です。特に前者の「ハプロテース」はⅡコリントだけで5回も使われています(1:12、8:2、9:11,13、11:3)。後者は2章17節で「神のことばに混ぜ物をしない」という意味で使われています。ヘブル語では「誠実」を「トーム」(תֹם)で、「純真さ」を「ヨーシェル」(יֹשֶׁר)で訳しています。誠実は人に対する態度に表わされますが、純真(純粋)さは神に対する態度を意味します。

●「トーム」(תֹם)が意味する「完全、潔白、誠実」は、人間関係を築いて行く上で非常に大切なものです。誠実さがなければ、人から信用されません。口先のことばや小細工ではメッキがはがれ落ちるように、やがて化けの皮がはがれます。相手の信頼を得るためには、そうした人間的な(肉的な)知恵ではなく、誠実な言動、すなわち言行一致が見られなければなりません。それは神を源泉としていることから、パウロは「神から来る誠実さをもって」という言い方をしています。しかもそうした行動ができるのも、神の恵みによるのだと言っています。

(2) 「誠実さ」と「良心」

●「誠実」は「良心」と密接な関係にあります。聖書の中には「健全な良心」「きよい良心」「正しい良心」「良心が麻痺する」といった表現があります。私たちも「良心が痛む」とか、「良心の呵責に悩む」といった表現を使います。人はみな良心をもっています。「良心」とは何でしょうか。「良心」とは、何が良いことで、何が悪いことかを敏感にキャッチする判断能力です。道徳的な善悪の判断の機能を果たすのがこの「良心」です。神の律法は、神の目から見て何が良いことか、悪いことかを教えてくれていますが、神の律法を知らなくても、人間には道徳的な善悪を判断する機能が心に備わっています。それは人間が神のかたちに造られたゆえです。パウロや同労者たちが、この良心を働かせて、誠実に、真っすぐに神に仕えているということのが、「良心のあかしするところであって、私たちの誇りなのだ」と言っています。

2. 責められることのない良心を保つ

●パウロの生涯を描いたルカは、使徒の働きにおいてパウロのことばを記録しています。

【新改訳2017】使徒の働き 23章1節
パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」

【新改訳2017】使徒の働き 24章16節
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

●使徒の働き23章1節以降は、パウロがエルサレムで捕えられた時に最高法院(サンヘドリン)で弁明したときのことばです。24章16節は、エルサレムからカイザリヤにパウロの身柄が移された後、エルサレムの大祭司と数人の長老、およびテルトロという弁護士がやって来て、パウロをローマ総督フェリクスに訴えた時のパウロのことばです。いずれも、「良心」(「スネイデーシス」συνείδησις)ということばが使われています。

●新約聖書で「良心」ということばを特愛用語として最も多く使った人は使徒パウロです。29回中26回です。後の3回は使徒ペテロが使っています。Ⅱコリント書のいう「良心のあかしするところ」とはどういう生き方なのか、反面教師を通して考えてみましょう。その反面教師とはローマ総督であったフェリクスです。パウロがローマ総督フェリクスの前での弁明の中で、彼がいつもどのような意識をもって生きていたのかを示すことばが、「いつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」(使徒24:16)というパウロの言葉です。この生き方は、やがて自分が神の前に立つという信仰がなければ生まれてきません。特に、パウロを訴えたサドカイ派(大祭司の系譜の者たち)は復活を信ぜず、神の前に立つという意識が欠落しています。その意味では総督フェリクスと何ら変わりません。ルカは、使徒の働き24章22節以降で、フェリクスの言動に注意を向けさせるような書き方をしています。原文での主語と主動詞をつなぐことによって、パウロとは正反対なフェリクスの自己保身的な生き方が如実に見えてきます。

【新改訳2017】使徒の働き24章22~27節
22 フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来たら、おまえたちの事件に判決を下すことにする」と言って、裁判を延期した
※なぜ「延期した」かといえば、それは意図的延期、 政治的、⾃⼰保⾝的延期です。
23 そして百人隊長に、パウロを監禁するように、しかし、ある程度の自由を与え、仲間の者たちが彼の世話をするのを妨げないように、と命じた
24 数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て(※)、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた
フェリクスは妻ドルシラの願いを聞いて、パウロを呼び出し、話を聞いたというのが真相のようです。
25 しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った
なぜ、フェリクスは恐れを感じたのか?
26 また同時に、フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼び出して語り合った
動詞の「語り合った」の時制は未完了形で、繰り返して何度もという意味合い。フェリクスのした心は丸見えです。
27 二年が過ぎ、ポルキウス・フェストゥスがフェリクスの後任になった。しかし、フェリクスはユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを監禁したままにしておいた(=拘束状態のまま残した)。
原⽂では「ポルキウス・フェストゥスがフェリクスの後任になった」とありますが、真相はフェリクスが罷免
され食べたため。つまり⾃分が罷免されるまで、パウロを拘束していたということ。フェリクスはユダヤ⼈たちの歓⼼を買い、同時にパウロからのわいろを得ようとして、問題をそのまま、現状維持で放置しています。それが彼の人間的な自己保身的処世術でした。

●パウロの生き方はこれとは正反対のものであり、コリントの教会に書き送った手紙にも「良心が証ししていること」とあったように、パウロ自身、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています」(使徒24:16)という生き方が貫かれていたのです。

3. 良心のあかし

●旧約聖書で「良心」と訳された箇所は2箇所しかありません(Ⅱサム 24:10、ヨブ27:6)。いずれも「心」を意味する語彙が使われていて、意訳として「良心」と訳されています。ですから、「良心」という語彙そのものはヘレニズム的語彙なのかもしれませんが、その機能は人間の心に備わっているものです。たとえば、アダムとエバが、取って食べてはならないものを取って食べた後で、彼らは神の呼びかけを聞きました。すると彼らはどうしたでしょうか。「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。ここに良心が機能しています。悪いことをしてしまったという判断が働いています。「あなたはどこにいるのか」という主の問いに、アダムは「私は園であなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。しかしその理由はうそです。裸だから隠れたのではなく、取ってはならないと言われていた木の実を取って食べたからです。良心それ自体は、私たちが間違ったことを行うことをとどめたり、妨げたりする力はありませんが、間違ったことをしようとするとき、あるいはしてしまったとき、良心は私たちを責め始めるのです。良心の呵責という機能です。パウロはそのことを以下に記しています。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 2章14~15節
14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。
15彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

●ダビデはイスラエルの北から南に至る全土において、民の住民登録と人口調査をしようとしました。王の側近のヨアブという人が「なぜ、このようなことを望まれるのですか」と尋ねました。しかしダビデはこの時、ヨアブを説き伏せました。そして人口調査が始まり、それが報告されました。

「ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは【主】に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。【主】よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。』」(【新改訳2017】Ⅱサム 24:10)

●人の目には分からなくても、本人の心の中にとがめを感じるのは、良心が働いている証拠といえます。事実、ダビデがしたことは神の前に大きな罪だったのです。どうしてこれが大きな罪だったのでしょうか。ダビデは以前にも自分の家来であるウリヤの妻を奪い、姦淫の罪を犯しました。しかしその罪は、生まれて来る子どもがその罪の刑罰として死ぬだけでしたが、人口調査はその罪のゆえになんと民の七万人が疫病で死ぬというさばきを招いたのです。

●この罪の大きさは、イスラエルの国が他の国と同じように、専制国家へと転落していくほどのものだったのです。ダビデは自分の心の中に、自分はあくまでも神の代理にしか過ぎない王であることの一線を越えたことをしたのです。良心はその彼の隠れた動機が神のみこころに逆らうことであることを警告したのです。しかしダビデは、その良心のとがめを、良心の警告を無視しませんでした。ダビデは自分の罪に気が付き、悔い改めたのです。多くの犠牲者を出しましたが、七万人の犠牲だけでとどまったのです。もしダビデが良心の警告を無視したとしたら、犠牲となった人は七万人では済まなかったことでしょう。国全体が滅びかねない事態だったのです。

●このように、良心の存在は善悪、何が良いことで、何がまちがっているかを私たちに教えようとする機能を持っているのです。ですから、良心を拒否し続けるならば、その機能は麻痺し、無感覚に、鈍感になるのです。その結果、私たちはサタンの絶好の餌食となってしまうのです。ですから、良心に敏感であること、良心に従って歩むことは、私たちが誠実に振る舞うことと密接な関係があるのです。

●イェシュアの語られたたとえ話を一つ取り上げたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書21章28~31節
28 ところで、あなたがたはどう思いますか。ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。
30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。
31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」
この箇所を新改訳改定第三版で読んでみよう。

●「後になって思い直し、出かけて行った」のは、良心が働いた証拠です。父はそのことを喜びました。良心に従うということは、その人の品性を形作る重要な鍵と言えます。特に、パウロがⅡコリントで述べているように、誠実さをもって行動していることは良心があかしするところだということは、自分の言動に何ら良心のとがめをおぼえることはないと断言しているのです。このような生き方こそ、人から厳しい非難や誤解を受けても、毅然としていられる力を生み出すのです。

●パウロはコリントの人々との信頼関係を得るために手紙を書いています。

13 14 私たちは、あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません。あなたがたは、私たちについてすでにある程度理解しているのですから、私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。
14 【前節に統合】
15 この確信をもって、私はまずあなたがたのところを訪れて、あなたがたが恵みを二度得られるようにと計画しました。
16 すなわち、あなたがたのところを通ってマケドニアに赴き、そしてマケドニアから再びあなたがたのところに帰り、あなたがたに送られてユダヤに行きたいと思ったのです。
17 このように願った私は軽率だったのでしょうか。それとも、私が計画することは人間的な計画であって、そのため私には、「はい、はい」は同時に「いいえ、いいえ」になるのでしょうか。
18 神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。
19 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。この方においては「はい」だけがあるのです。
20 神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。
21 私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。
22 神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。
23 私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。
24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。

●パウロに対する非難は、彼が前もってコリントに行くという計画を知らせておきながら、その計画を取り消したことに対するものでした。つまりパウロという人は、自分勝手に計画をコロコロと変えてしまういい加減な奴だと思われていたのです。これでは信頼関係を築くことはできません。Ⅰコリント16章を見ると、パウロはコリント訪問計画についてこう言っています。「主がお許しになるなら」と。彼がコリントに行かないでいるのは、コリント教会に対する「思いやりのためです」と言っています(Ⅱコリント1:23)。そして次の節にも「私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。」と述べています。コリント教会の人々が、自らの信仰で堅く立たせるために、あえて行くことをしなかったのです。自分が権威ある者として行くことによって、その権威を行使することで、コリント教会の人々を悲しませたくなかったからです(以前一度そのような訪問になってしまったことがあった)。自分が行ってどうこうではなく、彼ら自身の信仰で堅く立ってもらうことをパウロは望んだのです。このことに関しても、パウロには良心のとがめを感じることなく、堂々と胸を張って言うことができる良心のあかしがあったのです。

2019.1.31


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