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知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

22. 知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみ

【聖書箇所】10章1節、5節

ベレーシート

  • 箴言はこの10章から「ソロモンの格言」となり、これまでとは流れが変わります。反意的パラレリズムの修辞法が多くあることが特徴です。たとえば、「知恵のある子」と「愚かな子」、「正しい者」と「悪者」(愚か者)、「悟りのある者」と「思慮に欠けた者」などといった反意語がそうです。
  • 10章以降には、扱われているテーマが数多くありますが、私の瞑想の着眼点を「家庭教育」に絞りたいと思います。なぜなら、それは今私自身に置かれている重要なテーマであり、教会や連盟の「次世代育成プロジェクト」の要となる部分でもあるからです。両親が家を建て上げることは、神が家を建て上げることの写しです。神と人とが共に住む永遠の家を建てるということが神ご自身の永遠の夢であり、神のヴィジョンなのです。そのヴィジョンに沿った親の務め、つまり主にある教育とは、神から授かった賜物としての子どもを「主を恐れる知恵のある者とする」ことです。親は子を教えることにおいて、共に主を恐れることを学ぶのです。子も親に従うことによって、神のみこころにかなう者として訓練されるのです。そのための知恵が箴言の中に啓示されていると信じます。
  • 10章から二つのみことばを取り上げたいと思います。ひとつは1節に記されている箴言。もうひとつは5節に記されている箴言です。

1. 子に対する父と母の喜びと悲しみ

【新改訳改訂第3版】箴言10章1節
知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。

【新共同訳】箴言10章1節
知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き。

  • 「父」と「母」が登場するのはパラレリズムのゆえです。ここにはいずれも子に対する両親の喜びと悲しみが記されています。家庭教育をしたとしても、「知恵のある子」(「ベーン・ハーハーム」בֵּן חָכָם)ともなれば、「愚かな子」(「ベーン・ケスィール」בֵּן כְּסִים)ともなり得ます。子どもがみな「知恵のある子」となるなら、その子は親にとって「喜び」となりますが、逆に「愚かな子」となるなら、親にとって「悲しみ」となるのです。「悲しみ」を意味するヘブル語は多くありますが、ここで使われている「悲しみ」はヘブル語の「トゥーガー」(תּוּגָה)で、「憂い」とも「重荷」とも訳されます。
  • 「ハヌカの瞑想」で取り上げた、ヘレニズム化に反対した祭司の父マタティヤとその五人の息子たちはきわめて良い例と言えます(マカバイ記上1~4章)。息子たちは父を尊敬し、父の意志をついで、神のみおしえであるトーラーを愛し、すべて殉教しますが、彼らによって一時はユダヤが独立を勝ち取った時があったのです。その父子の信頼は学ぶべきことです。
  • しかし反対の例もあります。同じ祭司であるエリの一家では、二人の子どもたちが神のみおしえによって育てられなかったために、二人ともスポイルしてしまい、神殿の契約の箱が奪われてしまって神の栄光がイスラエルから離れ去るという事態を招きました。また、大洪水という神のさばきを潜り抜けたノアと三人の息子たちがいますが、そのうちで神のみこころにそったのは長子の「セム」だけでした。「ハム」と「ヤペテ」の二人の息子は神の道から離れていきました。「ハム」の子孫からは最初の権力者「ニロムデ」が登場し、「ヤペテ」の子孫からはユダヤ人たちを二分させた「アンティオコス四世・エピファネス」が登場しています。
  • 「悲しみ」と訳された「トゥーガー」(תּוּגָה)は、憂い、重荷とも訳されます。どんなに主の愛とみおしえに従って子育てをしたとしても、すべての子どもが「知恵のある子」となるとは限りません。それは神の愛が注がれていたとしても、それを拒絶して神から離れる「愚か者」もいるからです。「愚か者」の背後には、人間の根深い問題が隠されています。神と同様に、「愚かな子」を持つ親は、それがすべて親の責任ではなかったとしても、苦悩に満ちた「悲しみ」があるというのは真実です。
  • 「ソロモンの格言集」として、最初に置かれている格言が人間社会の根本である家庭の親と子を扱っているのは意義深いことです。

2. 思慮深い子と恥知らずの子

【新改訳改訂第3版】箴言10章5節
夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。


【新共同訳】箴言10章5節
夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子。


●「思慮深い子」を新共同訳では「成功をもたらす子」としています。「思慮深い子」は「ベーン・マスキール」(בֵּן מַשְׂכִּיל)、「恥知らずの子」は「ベーン・メーヴィーシュ」(בֵּן מֵבִישׁ)。

  • 5節が意味していることは何でしょうか。それは「時」を知っている者とそうでない者との違いではないかと考えます。「天の下では、何事にも定まった時期があり」(伝道3:1)とあるように、時を生かすことのできる者は成功をもたらしますが、時を生かすことのできない者は何も得られず、恥知らずです。当時の子どもたちは自分の父の仕事に従事していることが多かったようです。父のしている仕事を通して、時の感覚を身につけていたのです。もし時を逸すれば、多くのものを失い、無駄になってしまうこともあるのです。時の感覚を身に着けるとは、計画から始まってそれを成し遂げていくプロセスのすべてを含みます。
  • 御子イェシュアもこの世において御父の働きをしておられました。彼は時について敏感であり、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道3:11)ことをだれよりも知っておられる方でした。その御子イェシュアが「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)とも、「父よ。時が来ました」(ヨハネ17:1)とも言っています。また弟子たちに対して、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)とも言っています。
  • 時に対する感覚は「機会」をつかむことにもなります。使徒パウロは「機会を十分に生かして用いなさい。」とも言っています(エペソ5:16、コロサイ4:5)。「今がその時」を知っている者こそ、「思慮深い子」であり、「成功をもたらす子」なのです。そのような子は、1節にもあるように「父の喜び」の存在なのです。


2015.12.16


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