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瞑想Ps99/A

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瞑想Ps99/A

  • 4節「王の力は、さばきを愛する」(新改訳)をフォーカスしてみたいと思います。新共同訳では「力強い王 さばきを愛し」訳され、またフランシスコ会訳でも「あなたこそ、さばきを愛する力ある王」と訳しています。エルサレム訳も You are a king who loves justice, 訳しており、さばきを愛する主語がはっきりと「王」であるように訳しています。
  • ところで、「さばきを愛する」とはいったいどういうことなのでしょう。ここでの王の力とは、おそらく王に与えられている統治としての権威と権能です。「さばき」と訳された「ミシュパート」は、王である神の統治用語を代表する語彙です。この「さばき」とは、単に悪を裁くという審判としての意味だけでなく、神の民を正義と公正(公平)と、知恵と愛をもって統治することを意味します。神の民の生存と防衛の保障を与える統治、敵との戦いおける戦略と戦術、その統治の在り様など、統治概念のすべてをこの「さばき」ということばで括ることができます。
  • かつて、ユダヤ人たちがイエスを十字架にかける前に、ローマ総督ピラトはイエスにこう言いました。「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのでか。」と。それに対してイエスこう答えました。「もしそれが上からーつまり神からー与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(ヨハネの福音書19:10~11)と言われました。この意味するところは、この世にあるすべての権威は神からのものです。「地の盾」と言われるこの世のすべての指導者は、王に与えられた権威を神のみこころにそって用いなければなりません。しかしそれを正しく行使することがなければ、真の「裁き」の権威をもっていることにはなりません。案の定、総督ピラトは自らイエスがなんら死罪に価する罪を見出すことができないと何度も宣言したにもかかわらず、ユダヤ当局の脅しに負けて、正義を曲げ、イエスを十字架につけるために引き渡しました。
  • 「さばきを愛する」という「愛する」はアーハヴאָהַב(’ahav)で、本来は、契約の愛であるヘセドに対して、選びの愛を意味する言葉です。しかしここでは、神が有している権威をどこまでも正しく用いるという、いわばそれに神がすべてをかけるという意味での「愛する」と考えます。それは必ずしも容易ではないことは、ビラトの例を見れば分かります。
  • 「さばきを愛する」方は聖なる王です。私たちの思いを越えた偉大なる王です。これまでこの世の歴史の中に登場した多くの王たち、たとい、その中に善王と言われる者もいたはずです。しかし、その権威と権能を正しく行使した完全な王はだれひとりとしていませんでした。しかし、最高の権威をもった神である王は、あわれみに満ち、赦しに富んだ神であり、ご自身の民となるべき者たちのためにご自身の身を犠牲としてささげられた王であることが、神の御子イエス・キリストを通して啓示されました。「聖なる王」とは人間的理解では全く考えられない王なのです。しかもその王が統治する神の国は、決して滅びることなく、永遠の王国です。そこに住む民たちに永遠に慕われる王でもあるのです。そのような方が支配する国の民として生きる者は幸いです。

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