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瞑想Ps96/A

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瞑想Ps96/A

  • 詩篇96篇のテーマは何でしょうか。私はその答えが10節にあると思います。つまり、「主は王である」ということです。ちなみに、このテーマは詩篇93~99篇のテーマでもあります。「主が王である」とはどういうことでしょうか。主はいつの時代においても王であられたのですが、この地上ではっきりと目に見える形で王としての姿を表わす時が来ます。それはキリストの再臨の時です。旧約時代の人々、あるいはイエスの時代のユダヤ人にとっては、イエスがメシアだと信じていませんので、再臨ということばは受け入れられません。彼らはまだメシアは来ていないと考えています。なぜなら、詩96篇で命じられているような「全地」、「国々の民の諸族」が主を礼拝するようなことが起こっていないからです。ましてや、11節以降にあるような自然までもがその呪いを解かれて、「天は喜び、地は、こおどりする」ようなことが未だ起こっていないからです。私たちが言っているキリストの再臨が、ユダヤ人にとっては主の来臨なのです。いずれもそこでは一致しています。そこが重要なところです。
  • この詩篇には多くの命令形でしるされた動詞が出てきます。1節、2節では「歌え」、「ほめたたえよ」、「告げよ」、「語り告げよ」。7節、8節、9節では「ささげよ」、「携えて・・入れ」、「・・を着けて、ひれ伏せ」、そして「おののけ」。10節では、「言え」となっています。 しかもそれぞれの命令形には、だれが(Who)、だれに(Whom)、なにを(What)、どこで(Where)、いつ(When)、どのように(How)、なぜ(Why)・・・ということが記されています。これらの命令を表わす多くの動詞と、その命令に付属するすべての説明句は、みな「主が王である」というところに行き着きます。
  • 10節の「主は、王である」と訳されることばは、名詞的に、主=王とも言えるし、

    ①「主は王となられた」(過去完了)
    ②「主は支配する(される)」(現在の事実)
    ③「主は王となる(なられる)」(未来完了)確実にそうなるという意味で預言的な完了を意味します。

  • 聖書全体の思想からすると、主なる神は、世界の創造の昔から永遠の未来にまで王権を掌握しておられます。それを放棄したことは一度もありません。ゆえに、第一、第二の理解が可能です。しかし、13節を見ると「確かに、主は来られる。」ということばからすると、将来、現実的に、完全な世界統治が具現化される終末の期待が包含されています。
  • これらが「主は王である」と訳されたことばの意味です。詩篇96篇はやがて過去、現在においても、そしてまた将来において(ユダヤ人にとってはメシアの到来、クリスチャンにとってはキリストの再臨において)具現化される主の王権を承認し、賛美し、告知する詩篇として作られたのです。
  • 詩篇96篇10節の後半を見てみましょう。
    「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ。揺るぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」 「さばく」ということばは、王に逆らう者にとっては恐ろしいことかもしれませんが、王に従い、王を信頼している者にとっては喜びです。決して恐ろしいことではないはずです。13節の「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。義をもって、真実をもって」です。このことを心に留めながら、王なる主に従っていかなければなりません。王の恵みの支配にあずかる者は、この詩篇で命じられているような生き方が求められているのです。
  • 最後に、ローマ書8章にある使徒パウロの述べる「希望」について思いを潜めましょう。

    ①被造物全体が、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいます。現段階では虚無に服しています。なぜなら神の子である私たちが神に罪を犯した結果として。人と自然との秩序が崩壊しているからです。やがて、まことの王が来られるとき、地の呪いは解かれます。

    ②神の子である私たちを、肉体の滅びの束縛から解放して本来の姿に回復させようと御霊がうめきをもってとりなしてくださっています。

    ③イエスも神の右の座で私たちのためにとりなしていてくださっています。

    ④それゆえ、なにものも永遠に私たちの主イエス・キリストにある愛から、私たちを引き離すことはできません。

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    • 使徒パウロは言っています。
      「キリストによって、・・・私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5章2~5節a)
    • 主が王であることと、確かな希望をもって生きることは、密接な関係にあるのです。

    確かに、主は来られる (「キー・ヴァー」)
    確かに、主は来られる (「キー・ヴァー」) 地をさばくために

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