****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps95/A

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瞑想Ps95/A

  • この詩篇は「礼拝への招きの詩篇」として有名です。古くから教会で用いられてきました。この詩篇は、前半(1~7節a)の礼拝への招きと、後半(7b~11節)の厳しい警告を含んだ招きから成っています。教会の礼拝では、多くの場合、前半の部分しか読まれないことが多いのですが、後半の部分の双方があってはじめて礼拝が成立するということをこの詩篇は教えているように思います。また、この詩篇は「礼拝の流れ(構造)」をも示唆していると思います。
  • 前半の招きの部分においては、二つの招きがなされます。しかもその二つの招きはとても対照的です。最初の招きは<喜びにあふれた礼拝への招き>です。「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう」(1節)とあるように、私たちが礼拝においてしなければならないことは、主を喜ぶことです。「喜ぶ」という動詞が1節、2節で3回も出てきます。主に向かって「喜ぶ」とは、感情の問題ではなく、状況にかかわらず、主に向かって「喜ぶ」という神に対する意思の問題です。その理由は、3節、4節、5節にある事実のゆえです。
    ①主は、大いなる王だから・・・「大いなる」とは、最上級、比べようのない方を意味します。
    ②主は、全地の支配者だから・・・すべてが主の御手の中あるということは、すべてを愛をもって支配しておられることを意味します。
    ③主は、すべての創造者だから・・すべてのいのちの源、すべての所有者を意味します。
  • 次の招きは<畏敬の念をもった礼拝への招き>です。
    「来たれ、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。主は私たちの神。」とあるように、神への畏れを表わす三つの姿勢、つまり「伏し拝む」「ひれ伏す」「ひざまずく」、いずれも神の御前に身を低くする姿勢です。その理由は、神が私たちの羊飼いであるからとあります。羊にとって、羊飼いの存在は生死を左右するからです。羊飼いから離れた羊は生きることはできないのです。この認識が礼拝者のうちにあるとき、おのずと主を恐れる者となると信じます。
  • 後半の部分(7節b以降)は<従順な心をもった礼拝への招き>です。しかも厳しい警告が含まれています。詩篇はここで突然に変化しているために戸惑いを覚えます。しかし、実はこれこそ礼拝に不可欠な要素です。「きょう、もし御声を聞くなら、・・あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(7節b~8節)とあります。礼拝はささげるだけでなく、主の御声を聞くことによって成立します。主の御声を聞くことこそ、礼拝者としての責任です。もし、主の御声に聞き従うならば主の安息が約束されています。みことばに対するSay,Yes!  これこそプロテスタント教会が大切にしてきたことです。
  • イエスは弟子たちにこう語りました。「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。・・もしあなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネの福音書14章23節、15章10節) このようなかかわりこそ、永遠のいのちなのだと思います。主がそのような関わりの中へと招いておられることを心に留めたいと思います

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