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瞑想Ps93/A

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瞑想Ps93/A

  • 詩93篇~詩100篇は「主をイスラエルの王として賛美する詩篇」です。厳密には、93篇、96篇~99篇とされていますが、内容的には前者の範囲で捉えることができると私は考えます。それぞれの詩篇において、主が王であることの様々な面が賛美され、重複する部分もあれば、独自の部分もあるといった具合です。詩93篇に関して言えば、これらの一連の賛美の序文とも言える詩篇だと思います。ここには、王としての風格、王座の堅固性、民に対する約束の確実性と永遠性が表わされています。
  • 1節の「主は、王」は、
    ①「主は、王」(主=王)
    ②「主は王となられた」(過去完了) 
    ③「主は統べ治められる」(現在の事実として支配しておられる) 
    ④「主は、王となられる」(未来完了、確実にそうなるという意味で、預言的完了とも言われる)
    というふうに翻訳できるようです。しかしヘブル語は「主は王となる」が完了形で記されます。いずれにしても、主の王権(王座)によって、「世界は堅く立てられ、揺らぐことはありません。あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたはとこしえにおられます。」と宣言されています。
  • 王としての資格とその役割は、以下の四つをあげることができます。これらの四つの要素が詩93~100篇にちりばめられていると言ってもよいと思います。主が王であるということは、その王の民が必ず存在するということです。
  • A. 主権をもっていること。主権とは最高の権威をもってすべてを支配すること
  • B. 公正にと正義をもってさばきをすること。
  • C. 自分の民を絶対的に守り、敵に勝利する力があること 
  • D. 自分の民に必要なすべてのものを供給し、祝福を与えること。
  • 詩93篇の場合、Aの要素(1節、2節)とCの要素(3節、4節)がたたえられています。今回は、特に「王としての風格」について瞑想したいと思います。
  • 1節「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。・・・力を身に帯びておられます。」
  • 旧約聖書の中で「みいつ」と訳されているのは、新改訳聖書ではここと、もう一つ詩68篇34節の二箇所しかありません。「みいつ」・・漢字では「御(稜威)」 日本では天皇にしか使われない言葉です。「みいつ」の他に「威光」(口語訳)とも訳しています。英語ではmajesty, excellence ただし、この「みいつ」には必ず「力」(strength)が付随しています。どんなに風格があっても、支配する現実の力がなければならないということでしょうか。その「力」は、神に敵対するすべての悪の諸力(3~4節)に勝って力強く、勝利をもたらします。
  • 「みいつ」と「力」(majesty & strength)、このイメージこそ、王の風格そのものと言えます。威風堂々たる風格。威厳、威光を衣としてまとっているというイメージ。人間的に言うならば、品格、人柄ということでしょう。まさに神らしいあり方、態度、姿をあらわすのに、新改訳では「みいつ」と訳しています。
  • 他にも、王の風格を表わす用語としては、詩96篇6節に「尊厳」「威光」があります。「尊厳」(新改訳)は、「誉れ」(口語訳)、「栄光」(新共同訳)、「栄誉」(LB訳)とも訳され、「威光」(新改訳)の方は、「威厳」(口語訳)、「輝き」(新共同訳)、「威光」(LB訳)と訳されています。いずれも王にしかふさわしくないものです。つまり、それらは「聖なること」としてくくられます(93:5)。
    私たちはこの方を神としているのです。
  • 私たちが生きている今の日本は、王制ではなく、民主主義による主権在民国家です。ですから、主をYour Majesty としてたたえることは決して容易ではないと思います。しかし、「朱に交われば赤くなる。」ということわざがあります。「みいつ」をまとった方と親しい交わりを許されることによって、果たして、私たちはどのような影響を受けることになるのか。答えは新約聖書のコリント第二3章18節にあります。
  • 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 品性においても、人柄においても、風格にしても、全く体裁のない者が、御霊なる主の働きによって、神の民としてふさわしい品格を身に付け、人柄においても、王なる神の栄光(風格)を反映させることができるという神の「奇しいわざ」の領域があることを心に留め、神の民としてふさわしく歩みたいと願わされます。

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