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瞑想Ps90/A

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瞑想Ps90/A

  • 詩90篇から詩篇第四巻がはじまります。この詩90篇、詩91篇、詩92篇には共通するテーマがあります。そのテーマとは「神を住まいとする」ということです。「神を住まいとする」とはどういうことなのでしょう。その祝福とはどんなものなのでしょうか。
  • 詩90篇では「神を住まいとする」ことと、「自分の日を数える知恵」とは密接な関係にあるように思います。「自分の日を正しく数える知恵」が与えられることで、「すべての日に、喜び歌い、楽しむように」なり、生涯にわたって輝いて生きることができるのだと思います。さて、「自分の日を数える知恵」のいくつかを見ていきましょう。

(1) 神を自分の住まいとすることです

  • 1節の「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。」とこの詩篇作者モーセは述べています。「住まい」とは「自分の居るべき場所」です。自分があるがままに受け入れられ、アット・ホームに感じられるような場所、時間を感じさせない居場所のことです。神を自分の居場所とすること、これこそ、人のいのちの質を決定づけるものになると信じます。神を自分の住まい、すなわち神を自分の居場所とする人は、いつも神の御手の中で安らぎをもって生きることができるのです。そこから、創造性と柔軟性のある生き方が生まれると信じます。
  • そもそも、「住まい」(家)とは何でしょう。それは、「神の語りかけを聞くことのできる場」のことです。「神の語りかけ」の具体的なことばとして考えられるのは、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(わたしの心に適う者)」という天の父の声です。この声は、御子イエスが30年間の沈黙を破って公生涯に入られるために、バブテスマのヨハネから洗礼を受けられたあとに語られた御父の声です。この声こそ、闇のただ中にあっても、光の中にとどまりづけることができるようにしてくれる声です。自由に生きることを可能にしてくれる声です。それは途切れることのない永遠の愛の声であり、その声を聞く者にいのちを与え続けてくれる声です。この声を聞くことのできる住まい(家)にいる時には、なにも恐れることはないと知るのです。
  • この天からの神の愛の声は、御子イエスだけでなく、御子イエスを信じ、御子イエスとかかわるひとりひとりにおいても同じく聞くことかできます。御子イエスが常に御父の家に住まわれていると同様に、私たちも神の子として聞くことができることを明確にしてくれました。御父の御手は、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」存在として、限りない祝福をもって、この私の上にもおかれているのです。ただ、この天からの愛の声は、とても穏やかで、やさしく、気づきにくい場所で語られているということです。押し付けがましい、無理に注意を引くような声ではないようです。この天からの声を聞く者は幸いです。
  • 御子イエスが12歳頃、両親と一緒にエルサレムの神殿に礼拝に行ったとき、イエスと両親がはぐれてしまうということが起こりました。自分を探し見つけた母マリアに対してイエスはこう述べています。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2章49節)。このことばには、イエスがなぜ公生涯の前に30年の準備期間が必要であったか、その秘密が隠されているように思います。イエスの力と知恵と愛の源泉は、常に、父の家に住むことだったと知ることはとても重要なことだと信じます。

(2) 神の家族の交わりの中に生きることです

  • 現代は「孤食の時代」と言われます。家族がいてもみなが別々に食事をする。家族で共に食事するために食卓を囲むことはとても重要なことです。そこでは、話が行きかい、交わりが存在します。人は交わることを通して生きるように造られています。ただ栄養補給のための食事ではなく、家族としての連帯を確認するための食卓は、生きる力を知らずに与えられているのです。招かれる事でもない限り、家の中で家族のメンバーとして一緒に食事をすることはありえません。家族の一員であるゆえに共に食卓を囲むのです。このことは教会において、奉仕のための共働だけでなく、神の家族としてのしるしである共食、すなわち礼拝ごとに愛餐を囲むことが大切です。初代教会の人々は、主を礼拝することと愛餐はひとつのことだったのです。家族の一員として迎えられることで、人に対する思いやりと愛にあふれた生き方をすることが養われるのです。

(3)  御父の家への帰郷への憧れを抱きつつ生きることです

  • 神とは違って、私たち人間は有限の存在です。老人になれば自分の限界を嫌というほど突きつけられます。そうした限界を受け入れなければなりませんが、それは老人にとってまさにひとつの危機的経験(クライシス)と言えます。
  • 神を住まいとして生きている人は、神の住まいへの憧れが日増しに強くなってくるものと信じます。使徒パウロはまさにそのように人であったと思います。⇒Ⅱコリント5章1~8節、ピリピ1章23節後半を参照。
  • 自分の死をはっきりと意識して生きる人とそうでない人とでは、生きるいのちの質が違ってきます。死は人間であるかぎり百パーセントの確立で訪れます。死を意識して生きることで、より充実した生が与えられるのです。でなければ、人生の「空しさ」(虚無)、はかなさを味わうことになると思います。死は人間側から見れば喪失を意味しますが、神の側から見れば歓迎を意味します。死は御父の家への完全なる帰郷です。
  • 神を住まいとすることで、自分の日を数える知恵が与えられ、御父の家への帰郷への憧れ抱きつつ、地上における神とのかかわりを生き生きと楽しむことができればと思わされます。

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