****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps84/A

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瞑想Ps84/A

  • この詩篇には「主の家」を意味することば、つまり、1節の「あなたのお住まい」、2節の「主の大庭」、3節の「住処」「あなたの祭壇」、4節の「あなたの家」、そして10節の「あなたの大庭」「神の宮」といったことばがあります。・・すべて住まいに関する用語です。しかも、神が臨在される場所です。そこに招かれ、そこに住む人々はなんと幸いなことかと作者は言っているのです。なぜなら、今それを失い、今いるところは自分の居場所だと思っていないからです。詩23篇のダビデの結論も「いつまでも主の家に住まいしましょう。」でした。主の家に私は住みたいという意思を表しています。
  • 立派なハウスがあってもホームがないことがあります。自分の居場所がないハウス。それはホームレスです。ホームとはアットホームな場所であり、自分の居場所があるところです。自分があるがままで受け入れられるところです。話をしたり、思いやりがあり、ほっとするところ、団欒のある場所です。それがほんとうのホームです。教会はまさにホームでなければなりません。職場のように、いつも世話しなく動き、働き、何かをしていないと受け入れてもらえない場所であってはなりません。その人が存在するだけでいい場所でなければなりません。それがホームレスの多い現代においては、最高の伝道です。共に食事をすることはとても重要です。孤食の時代だからなおそうなのです。愛餐会は主が招いておられる交わりの場です。そこは主を礼拝することと同等の価値をもった時間と空間です。賛美も説教も愛餐もすべて礼拝なのです。礼拝の中に主の交わりと主にある者たちとの交わりが含まれているのです。それがイスラエルにおいての祭りの意義でした。今日の教会はそれを回復しなければならないと常々思っています。
  • 主日の礼拝は、神を賛美して礼拝すると同時に、主にある者たちの交わりを通して、主にある自分の居場所を再認識するときなのです。「あなたの家に住む人たちは、なんと幸いでしょう。」と言えるなら、あなたは主の家族の一員として、自分の居場所を見つけた人です。神はそのような幸いを経験するように招いておられると信じます。とりわけ、高齢社会になった日本の教会に求められるのは、まさにこの幸いを経験できる場としての教会を建て上げることだと信じます。敬老センターの設立、年老いた者たちが、共に、生活することを目指しています。老人のひとつひとつのしわが醜いものではなく、美しく見える、そんなホームの建設です。「なんと幸いなことでしょう。顔のしわが美しく見られる人たちは。」となります。
  • 「シオンへの大路」という表現も味わい深いものがあります(原文には「シオンへの」ということばはありません)。シオン(神の臨在の象徴的表現)に向かうハイ・ウェイが心にあるという意味です。ハイ・ウェイ、高速道路を作るとき、山は崩され、谷は埋められ、曲がった道路がまっすぐにされます。イエスが地上で活躍される前に、バブテスマのヨハネが現われて、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説きました。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が神の救いを見るようになる。』(ルカ3章4~6節) 「谷は埋められ」とは、私たちの失敗や挫折の経験が、それによる失望が希望に変えられることです。「山と丘が低くされ」とは、高ぶりが打ち砕かれることです。「曲がった道」とは、正しい道を歩んでいない生活です。それがまっすぐになるということは悔い改めることを意味します。
  • 詩84篇の作者は、失意の経験を通して高ぶりが打ち砕かれました。そして、神に対する新しい思いが生まれてきたのです。それはシオンを思う心であり、神を中心とした生活への決意です。作者は言います。そのような人の幸いは、
    ①『涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわくところとします。』
    ②『初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。』(硬くなった、あるいは渇ききった心に恵みの雨が注がれます。それは豊かな収穫が約束された祝福のしるしです。
    ③『力から力へと進む』・・ルターはここを勝利から勝利へと訳しています。まさに、なにをしても栄えるということがもたらされます。神もすべてのことを相働かせて益としてくださいます。そしてその人の人生において豊かな祝福をもたらしてくださるのです。その人によって多くの人々が祝福を受けるようにもなるのです。
  • 私たちは主がどのような方であるのか、その信じるところによって大きく影響します。主を信頼するというのは、単なることばのあやではありません。84篇の作者は、主を「太陽」「盾」「良いものを拒まれない慈しみに満ちた方」として信頼しています。
  • 「太陽」はどんな人に対しても恵みを注がれる方であることを表わしています。太陽は光そのものです。夜が深い暗闇であったとしても、それがずっと続くわけではありません。やがて太陽が昇り、光が注がれると新しい朝が来るのです。必ず、です。ですから、今の自分の置かれている状況が暗かったとしても、必ずいつか太陽があなたの人生に昇ることを信じる者は幸いです。神は私の人生の太陽です。新しい朝をもたらし希望を与え、生きる力を与えてくれます。
  • 「盾」という表現もすばらしい告白です。この盾は、あらゆる敵からの攻撃を防ぐ盾です。神は私たちの回りを囲んでおられます。心配する多くの時間とエネルギーを主や人のために用いることができたらと思います。
  • 太陽が生存の保障であるとするなら、盾は防衛の保障です。人間の営みはこの保障を求めて生きているといっていいでしょう。その最も基本的な必要が神によって与えられていることを知る者はなんと幸いでしょう。主は私にとって慕わしい方です。

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