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瞑想Ps78/A

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瞑想Ps78/A

  • 詩78篇はこれまでになく長い詩篇です。もっと長い詩篇(例えば119篇)もありますが、千年余りの歴史を72節にまとめられていると思えばそれほど長いというわけではありません。私はこの詩篇のキーワードを2節の「昔からのなぞ」としました。「いにしえからの言い伝え」「先祖代々語り伝えられてきた教訓」とも訳されますが、マタイの福音書13章35節では「世の初めから隠されていること(複数)」としています。
  • 「なぞ」とは、不可解、神秘、私たちの理性では納得できない事柄であり、あり得ないことという意味です。その内実は、神と神によって選ばれた民との関係についてのものであり、神がなしてくださった驚くべき恵みを忘れて、繰り返し神に背き、幾度も神を無視しようとしてきたイスラエルの民・・・、にもかかわらず(in spite of)、神はその民に見切りをつけてしまうことなく、見捨てることもなく、歴史を貫いて、忍耐とあわれみをもって関わってくださったということ・・・これがこの詩篇のいう「昔からのなぞ」に他なりません。その「なぞ」の舞台はイスラエルの「歴史」です。作者は神とイスラエルというかかわりの歴史の「たとえ」を用いて「昔からのなぞ」を語ろうとしているのです。
  • 歴史は英語でHistory と言いますが、もともとの意味は、His story です。つまり、Hisとは神のこと、storyとは物語。His story つまり神の物語、それがヒストリーです。そのヒストリーの中に神のなぞがある。不思議なこと、神秘がある。それを語ろうとしているのです。そしてその「なぞ」に気づかされることが、マイ・ストーリー My story を産むのだと信じます。
  • 表題の「マスキール」とは教訓詩と考えられます。ことわざ、格言、箴言が教訓的な内容をもっているように。そこで、詩篇の中の二つの「詩的な表現」を通して「昔からのなぞ」を瞑想してみたいと思います。二つの詩的な表現とは、ひとつは57節の「たるんだ弓」、もうひとつは65節の「ぶどう酒に酔った勇士がさめたように」です。この二つのキーワードは、北森嘉蔵著「詩篇講話」(上)に負うところ大です。

(1) たるんだ弓

  • 「たるんだ弓」という表現が出てきます。他の訳で見てみますと「狂った弓」「欺く弓」「謀る弓」のようにと訳されています。新改訳のことばをもっと見てみましょう。「たるんだ弓の(たるんだ弓で放った)矢のように」とあります。矢が問題なのか、それとも弓が問題なのか、その重点の置き方で解釈、受け取り方の違いが出てきます。もし、矢のほうに重点をおいたとしたならば、人間が神を忘れ、神に背くのは、弓矢が的を外してしまうからだという考え方が成り立ちます。つまり、弓そのものが問題ではなく、人間が的を狙ったときに、狙い方がまずかったとか、呼吸がうまくいかなかったとか、矢の放し方が早すぎたとか、ひとつの過ちのために矢が的をはずしてしまったという考え方です。そういう場合には、たとえ一回失敗しても、その次に頑張れば、矢は的を外すことなく当てることができるという考え方です。もっともこの場合は、弓に狂いがないという前提に立っています。ですから努力次第でなんとかなる、と考えます。
  • ところが、この詩篇が言おうとしているのは違います。弓そのものに狂いが生じているのです。ですから、努力次第でなせるというふうには考えていない。努力しても矢は的を外すという考え方に立っています。弓自体がすでに狂ってしまっているのです。
  • 人間は罪を犯すから罪人になるのではなく、もともと罪人なので罪を犯すのです。つまり必然なのです。繰り返し、繰り返し、幾度も幾度も人は神に対して罪を犯してしまう存在です。この詩篇には、人間が神を「欺き」「試み」「拒み」「忘れ」「逆らい」「裏切った」ということばが頻繁に出てきます。もともと弓がたるんでいるわけで、神がどんなに良いことをしてくださっても、ねじれた者の応答は、神が悲しむような態度しかとれません。神の民として選ばれたイスラエルはすべての人間の代表です。したがって、彼らの現実はすべての人間の現実です。人間の世界では、役に立たないものは投げ捨てられて当たり前です。ところが、「昔からのなぞ」はこれが当然ではないのです。

(2) ぶどう酒に酔った勇士がさめたように

  • 人に関わる神のあり方がまさに「なぞ」なのです。人間の世界では、あり得ない、アブノーマルなのです。 「そのとき主は眠りから目をさまされた。ぶどう酒に酔った勇士がさめたように。」(65節)。この表現は、神様の積極的な働きかけの再開を描く絵画的、詩的表現です。
  • 私の父は酒が好きでした。飲んで酔っ払うと寝てしまう姿を思い出します。しかし翌朝、起きると、酔いも全く覚めて、昨晩飲んで酔っていた姿は跡形もなく、新鮮な気持ちで仕事に出かけていく姿を見ていました。酔っ払った姿は嫌いでしたが、酔いから覚めた本来の父の姿を見ると、子どもながらにとても頼もしく感じたものです。神は、まさに、酒の酔いが覚めた勇士のように、人の失敗など忘れたかのように、神の新しい行動を開始していくのです。しかも38節には驚くべきことばがあります。「しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押え、憤りのすべてを掻き立てられはしなかった。」と。
  • 使徒はパウロも神のこの「なぞ」について次のように述べています。「兄弟たち・・ぜひこの奥義を知っていただきたい。・・・その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。・・(彼らに対する)神の賜物と召命とは変わることがありません。・・・ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と知りがたいことでしょう。・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうかこの神に、栄光がとこしえにありますように。」(ローマ11章25~36節)
  • キリスト教の歴史においては、長い間、ユダヤ人はイエスを十字架につけた張本人として、神はイスラエルに代えて、教会を選ばれたという置換神学によってユダヤ人を蔑視し、迫害し続けてきました。しかし、神の御子イエス・キリストを十字架につけたユダヤ人たちがやがて民族的に救われるときがくるのです。神は決して彼らを捨てることはなく、やがて民族的な救いをなされるのです。これこそ「昔からのなぞ」だと言ってもいいでしょう。なんという神の愛、神の真実なのでしょう。また、イエス・キリストの十字架のみわざは、この宇宙で最も「なぞ」に満ちた出来事だと言えます。私も神の変わることのない愛と真実によって生かされている者でしかないことを忘れないようにしたい。そしてこの詩篇の作者と同様に、神の「昔からのなぞ」を語り告げる者となりたい。

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