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瞑想Ps66/A

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瞑想Ps66/A

  • この詩篇は「賛美への呼びかけ」です。しかも全地に呼びかけられています。前篇(65篇)が沈黙の賛美であるならば、66篇は、爆発的な賛美です。喜びの叫び(Shout of joy, The joyful shout)です。この詩篇はおそらく神の民がバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに帰還し、神殿を建設して、かつてなされていたダビデの幕屋、およびソロモン神殿での賛美礼拝を復活させた頃のものと思われます。「神への賛美を栄光に輝かせよ!」これが帰還した民たちのなすべきことでした。
  • ところで、「神への賛美を栄光に輝かせる」とはいったいどういうことなのでしょうか。その意味を瞑想してみましょう。
  • 第一に、神が過去になされた偉大なみわざを想起することです。以下の出来事は、いずれも神にしかできない奇蹟でした。

    ①出エジプトのみわざ(6節前半)
    ②ヨルダン渡河のみわざ(6節後半)
    ③バビロンからの帰還のみわざ(9~12節)

  • 第二は、神のみわざの前に置かれていた苦しみの状況を想起することです。上記の①②③の神のみわざは、イスラエルの歴史におけるきわめて重要な出来事ですが、その背景には人間的な罪による失意や失態、不信仰による苦しみの叫びがあります。しかし神は、その叫びをお聞きになり、神のみわざの恵みが証されているのです。

    ①の背景を思い起こしてみましょう。神はモーセを80歳にして神の民をエジプトから脱出させ、約束の地へと行かせるための指導者として召し出しました。彼が神の言われるようにエジプトに行き、パロにその要求を告げた時、民たちの苦しみはそれまで以上に苦しいものとなりました。そのため、民たちはモーセの言うことを信用しなくなりました。にもかかわらず、神は民の苦しみの叫びを退けませんでした。過越の出来事(すべての初子が死ぬというさばき)によって、エジプトの王パロはヘブル人たちをエジプトから解放しました。しかしすぐに追いかけました。神は立ちふさがる紅海を二つに分け、民たちを渡らせたあと、追ってきたエジプト軍を壊滅させたのです。

    ②の背景としては、ヨルダン渡渉の出来事の前の40年間は荒野の訓練がありました。これは神の約束に対する不信仰の結果でした。ヨシュアとカレブ以外はみな死に絶えました。第二世代になって新しく神の約束を受け取るべく信仰の戦いを求められたのです。その最初の一歩がヨルダン渡渉で、祭司たちが一歩足を踏み入れたその時に、川の流れは止りました。そこで民たちはヨルダン川を渡ることができました。

    ③の出来事の背景には、神の民の霊的姦淫、つまり偶像礼拝によって神の民はバビロンに捕らえ移されました。それは神の民にとって屈辱的な出来事でした。これは神の民を新しくするための神の配剤でした。人々はこの試練を通して、「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました」(10節)と受け止めることができました。

  • 第三は、苦しみの状況の中で、涙をもって悔い改め、新しい決断(誓い)へと導かれることです。幸いにも、バビロン捕囚の屈辱は神の民に悔い改めの実をもたらしました。18節の「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」とあるように、少なくとも作者は神への悔い改めへと導かれました。そして生涯、神に仕えていくことを、最高のささげものをもって神を礼拝することを約束(誓約)したのです(13節)。15節の「全焼のいけにえ」とは、神への感謝のささげものの中で最高のものを意味します。
  • 第四は、神の恵みに感謝することです。苦しみの状況はすべて人間側の罪がもたらした結果だったにもかかわらず、神は彼(彼ら)の祈りを退けず、御恵みを取り去ることはありませんでした。20節に「ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵み(constant love)を私から取り去らなかった。」とあります。この思いこそ、神への賛美を栄光に輝かす上で大切なことです。神のすばらしさは、いつも私たち人間の罪の現実に対して、恵みをもってかかわってくださることです。この感動こそ、神への賛美にいのちと輝きを与えるものです。
  • イエス・キリストの十字架の出来事。それは、私たち人間の深い罪の現実が最も顕わにされた出来事でした。イエスを十字架につけた直接的な人々は、当時、最も神を敬う者とされていた人々だったのですから。しかしイエスは「彼らをお赦しください。彼らは自分がなにをしているのかわからずにいるのです。」と祈られました。そのイエスのとりなしの祈りを父はお聞きになりました。神の変わることのない愛が、人間の罪のどん底で現わされたのです。その驚くべき愛に触れた者がささげる賛美こそ力があります。「神への賛美を栄光に輝かせよ」との命令は、結局のところ、恵みに満ちた神のご介入なしにはあり得ないのです。
  • 私はこう祈ります。
    「主よ。あなたにいつも生きた賛美を通して、あなたを礼拝する者としてください。パフォーマンスの賛美ではなく、感謝にあふれた賛美を通して、あなたがどんなにすばらしいお方であるかがあかしされますように。」

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